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施設に入れてよ

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『施設に入れてよ』

 季節を問わず、晴れた日には、マツは家の前の道端に椅子を置いて、ぼんやりと過ごすのが常だった。その道は細い旧道で道行く人も通る車もさほど多くはないのだが、いったい何を見ているのか、誰にも分からなかった。
 八十歳になったマツは数年前から物忘れがひどくなっている。-今では、覚えている人の名は息子であるテツオの夫婦を含めて数十人に過ぎない。
テツオの嫁、ユリは事あるごとに「そろそろ、施設に入れた方が良いんじゃない」と言う。その施設とは、近くにある有料の老人ホームことだ。

 夕食のときのことである。マツは具合が悪いといって、夕食をとらずに先に寝た。
ユリが「みんな迷惑だというのよ」と小声で言った。まるで近くにマツがいて、聞かれてはまずいことを話すかのように。
「誰が?」とテツオが聞く。
「誰がって、お母さまのことよ。道端の近くで椅子に腰掛けているの」
 ユリは歯に衣を着せぬものの言い方をする。昔、テツオはそんなところが好きだったが、この頃は耳障りに感じることがある。
「道端で椅子に腰を下ろしていただけだろ? 誰にも迷惑をかけていない」と平静を装って反論した。
「近くにスーパーができたせいか、最近、車の量が増えてきて危ないと言うのよ」
「誰が?」
「誰がって、……みんなよ。隣の青木さんも、その向かいの酒井さんも。いつだったか、お母さんが急に前に出て、近づいてきた車が急停車をしたのを見たと言っていたわ」
その先を言わなくともテツオには分かっていた。要はマツを施設に入れたいのだ。昔から、ユリとマツは合わなかった。ときどき言い争いにもなったが、結局、嫁であるユリが折れた。「何でもかも、私がするのが、嫌いなんだわ」と愚痴を言ったのは数知れない。言われたテツオはただ苦笑するしかなかった。それもマツがしっかりとしていたときの話である。足腰が弱り、顔に皺が増え、白髪頭になった頃には、立場は逆転していた。何事もユリがあれこれ決め、マツはおとなしく従った。それでもマツの存在が目障りなのであろうか。あるいは、嫁いだ頃の嫁いびりの恨みでも晴らしたいのだろうか。とにかく施設に入れたがっている。だが、テツオには優しかった母の思い出がある。幼稚園、小学校、中学校、高校、大学と人生の節目には必ず母がいた。施設に入れたいとユリが言う度に、いろんな思い出が脳裏をよぎり、テツオに「 うん」と言わせない。
「そうだとしても、簡単に施設に入れることはできない」と言い張った。
「あなたって相変わらずマザコンね。幾つになっても母親がそばにいないと,だめなんでしょ?」と皮肉った。
 苦笑だけして反論しなかった。
 二人は正反対の性格だった。ユリは何事もはっきりさせる性分であるのに対して、テツオは事なかれ主義でできる限り穏便で波風を立てない。昔はお互いに欠点を補おうとしたが、今では反目しあうことが多い。いつからか別々に寝起きしている。かろうじて、世間体のために離婚は避けたいという共通の思いが、あたかも一本の細い糸のように二人を結び付けている。だが、その細い糸もマツを施設に入れるかどうかで切れそうになっている。
「私も我慢の限界よ。勝手に部屋は散らかすし、わけの分からないことを言い出す。あなたは、昼間勤めに出ていないから分からないでしょうけど」と怒鳴った。
すると、テツオが珍しく切れた。
「誰のおかげで飯が食えると思っているんだ」
二人は取っ組み合い寸前の大喧嘩を始めた。

翌朝、マツがテツオに「施設に入れてよ」と言った。
「驚かなくてもいいよ。この頃、物忘れもひどいし」とにこやかにほほ笑んだ。
「嫁が言う施設でいいよ。あそこには知り合いが何人も入っているから」
マツは自分のことで息子と嫁が大喧嘩していたのを聞いていたのである。ずっと前から同じように口喧嘩をしていたが、最近、その回数が増えてきたことに心を痛めている。昨夜の大喧嘩も最後まで聞くことができず、布団をかぶり聞こえないようにした。しばらくして、死んだ夫が夢に出てきた。懐かしさのあまり泣いた。そして、なぜ夢に出てきたのか考えた。早く自分のところに来いと言っているのではないかと思った。
ユリが入れたがっていた施設は街から離れた山の麓にあった。テツオは知人の話を思い出した。『施設に入れば、家族の足は自然と遠のく。訪れる人が少なくなれば、ぼけるのが加速する。あの施設は年寄りの地獄の一丁目だよ。まあ、現代の姥捨て山だ』
「本当にいいのか?」とテツオは今にも泣きそうな顔をした。
「もう、いいよ。施設でのんびりとあの世に行く準備をするよ。お前は嫁と末長く生きて、この家を守ってくれ」とマツは微笑んだ。
 実をいうと、テツオも、どうやって勧めようかと思案していたところだったのだ。ユリが『施設に入れなければ、離婚する』と言い出したからだ。離婚だけは避けたかったのである。
さいわい施設に空きがあり、一か月後に入所が決まった。

 施設に入る日、マツはユリに言った。
「ここには、もう戻ることはないね。昔、ここに嫁いで来たときのことを思い出したよ。あの日と同じだ。穏やかで、秋晴れの良い天気の日だった。あの日と同じで良かった。施設に入るには、ちょうどいい日和だよ」
ユリは自分が嫁入りした日を思い出した。マツが嬉しそうに手を握りしめてくれた。そのことを思い出したら、一筋の涙が流れた。

作品名:施設に入れてよ 作家名:楡井英夫