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殺人者ー笑うことができなくなった男ー

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『殺人者(笑うことができなくなった男)』

 これは深い愛ゆえに、愛する人を刺し、同時に笑うことができなくなった男の話である。
今まで、彼は本当に恋したことはなかった。しかし、一人の女が現れたことによって運命が大きく変わった。
彼女は恋に失敗した女だった。男は彼女を一目見るなり恋した。美しい瞳、そしてよく笑う明るい性格に。あまりうまくいかなかった自分の運命を変えてくれる女神だと思い口説き続けた。男の甘い囁きは失恋に傷ついた彼女の心を癒した。数日後には、夜をともにするようになった。やがて二人は同棲する。
 
安いアパート借りて住んだ。貧しかったが、二人は幸せだった。女の笑いに誘われて男もよく笑った。実につまらぬことでも、彼女が笑うと、男はつい一緒になって笑った。男が心から笑えたのは、この同棲したときだけだったかもしれない。

同棲したことを、どう聞きつけたのか、彼女の母が二人の前に現れた。
「あんた、まだ二十二歳の娘をだましたわね。許さないわよ」と男の弁明を聞かず、一方的に喋った。
男がどんなに女を愛しているか懸命に訴えても、鼻で笑い無視した。
そして、男の居ない時を見計らってアパートを訪れ、激しく娘を罵った。
「つまらぬ男に引っかかって、一生を台無しにするつもり。その覚悟があるならいいけど、そうでないなら、さっさと別れない」
列火の如く怒る母親に、さすがに恐れをなして、女は別れることを決意し、男の居ない間に荷物をまとめて実家に戻った。
しばらくして男に電話した。「あなたのことを愛しているけど、母が言うように別れる。だって、実家に背を向けてなんか生きられないもの」と言って電話を切った。

女からは連絡しなかった。男は思いを断ちきれないばかりか、むしろ思いは募るばかりだった。それに悪いことに彼は経済的にも追いつめられていった。商売に失敗したのである。その結果、家賃さえ払えなくなる。自虐的な日々が始まった。酒におぼれ、寒い冬を過ごす。どん底に追い込まれた彼の心の中で、女はある意味で明日への希望であり、望みの象徴にまで昇華していった。
そんな冬のある日、何を思ったか、女に会いに行こうと決意する。ナイフを用意した。何のために? 脅してでも、自分の気持ちを伝え、そして女の本当の気持ちを聞きたかったからだ。ポケットにナイフを忍ばせて、女の住むところに向かった。行く途中、いろんなことが脳裏を過ぎる。女の笑顔。一緒に暮らした楽しい日々。過去と現実が互いに侵しあい、やがて、現実と空想の区別ができなくなり、やがて女に会えばバラ色の明日があると思い込んだ。

女の家のドアの前に立った。緊張する。ふっと息を吸い、ドアを叩く。運よく女が出たすこし戸惑いの色を見せる。その戸惑いに色の奥には、軽蔑とか迷惑だとかそういったものがあることに気づいた。ついさっきまで見ていた、バラ色の明日が音もなく砕かれた。同時に怒りがこみ上げてきた。
さらに「何か用かしら?」という冷たい一言で怒りに火をつけた。我を失い、気づいたとき、彼の手には血のついたナイフがあった。

 静かな獄中の中で何度も考えた。何が起こり、何が間違ったのか。どんなに考えても、愛する者を刺したということは、彼自身にとっても、おぞましい結果でしかなく、できなら、消し去りたい事実だった。
 
 男は神父が来たとき、こう言って泣き崩れた。「未だに信じられないんです。自分の気持ちを聞いてほしいだけだったのに。二人で一緒にいたときは良く笑いました。でも、今はもう心から笑うことができません」