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雪のつぶて6

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沙織とは病院の忘年会で知り合いになった。
 一昔前にできた結婚式場が会場に当てられ、忠彦は会社から預かってきたビンゴの景品やら、酒の瓶を抱え、座る暇もない有様だった。会場は酒と煙草のにおいが充満し、煙草の煙が天井で渦を巻いていた。集まった職員は、まるで中毒患者みたいに酒を煽っていく。宴会も終わりに近付けば、隅で転がってる若い看護婦が、ミニスカートからそれこそショーツが見えそうになるのも気付かずに泥酔していた。だからと言って、手を貸してやる者もいない。最後は救急車を呼びつけて、自分達の病院まで運んで貰い、点滴の一本でも打てばいいという腹なのが丸見えだった。
トイレに行けば汚物が散乱している。テーブルの上には、グラスや酒瓶が転がっていた。
沙織はそんな会場の壁際で、大学を卒業したばかりの医師に誘われていた。
ねえねえ、桑野さん。この後、どっか行こうよ。二次会なんて行かなくたってわかりゃしないよ。
 前を通りかがるたびに、医師の話しばかりが聞こえてきた。沙織は頷くでもなく、断るわけでもなく、透明な液体が入ったグラスを飲み干していく。視線は隣の医師を過ぎ、散乱した会場へと向けられている。冷ややかな瞳の色だった。呆れているのは医師の態度と会場の様子らしい。にこりともせず、時折思い出したように溜め息を吐き出しては、煙草を吸っていた。
 酒の瓶が並べられていたカウンターにやってきたとき、沙織は酷く眠そうに大きなあくびをした。口元を隠した手には、黄緑色のペリドットの指輪が光っている。医師は金魚のふんのように後ろから追いかけてきている。
 ウォッカ。ロックで頂戴。
 忠彦の目の前にグラスを差し出すと、けだるそうにもう一度あくびをした。
 こういう馬鹿騒ぎ、苦手なのよねえ。
 誰に言うわけでもなかった独り言が、ウォッカを注ぐ忠彦の耳元に届いた。
プロパーさんも大変よね。同情しちゃうわ。ありがとう。
 小首を傾げると、その場所には不釣合いな香水が、ふわりと漂った。それには何故かピンクの色がついていた。沙織はまた壁際により、ウオッカをちびちびと舐め始めた。医師の態度は変わらない。壁に手をつき、沙織の体をほかから隠して誘い続けていた。
 その後はビンゴの景品を配って回り、沙織のことはすっかり忘れていた。思い出したのは、建物の外に出からだった。酔いつぶれた職員は早々に救急車に乗せられ、かろうじて正気を保っている連中は、二次会へと足を運んでいく。忠彦も柿崎に後から来るように言われていたが、これ以上付き合うつもりはなく、早々に帰るつもりで、足が急いていた。建物から出て行くと、二次会に移動としたと思っていた沙織がいた。例によって医師がまとわりついている。沙織の眉間には露骨な皺が寄っていた。
 あ、待ってたのよ。
 横を通り過ぎようとしたとき、沙織に腕を取られていた。
 出てくるまでに随分時間がかかったのね。片付けが大変だったの? 待ちくたびれちゃったわ。行きましょ。
 ファーがついた黒いコートを抱き寄せて、忠彦の腕に顔をうずめ、早足で歩き出していく。
 急いで。あの人、嫌いなの。
 耳元で囁かれ、一緒になって駅までの道のりを歩いた。駅のあかりが目に入る場所で、沙織は一度だけ振り返った。医師の姿はない。
 握り締めていた腕を離し、沙織はコートの襟をかきあわせた。
 ありがとう。あの人、嫌いなの。しつこくて。
 そうして沙織を長い髪を後ろに放った。ピンク色の風が、また浮遊する。
 本当によかったの?
 どうして? 本当に嫌いなの。医者なんかと付き合うやつは馬鹿よ。
 そうなのかい。
 そうよ。まあぐちゃぐちゃ言ってもあなたにはわからないだろうけど。それよりもお礼に飲みなおししない? あの人と飲むより、あなたと飲んだほうが楽しそう。
 ブルーのマスカラを塗った睫をしばたたかせる。それは孔雀の羽の動きに似ている気がした。
 医師の姿を捜して、忠彦が振り返ったのは、一瞬。瞳はすぐに、沙織に引き戻されていく。
 いいけど。君は二次会に行かないの?
興味ないの。行ったところで、ドクターが若い看護婦やらクラークなんかをからかうところを見せられるだけだもの。つまらないでしょう。そんなの。
 君だって十分、若いと思うけど。
 ありがと。そう言ってくれる人と飲んだほうが楽しいわ。行きましょうよ。近所に知ってる店があるの。おごってくれとは言わないわよ、安心して。かわりにおごってあげる、とも言えないけどね。
 目を細めた沙織の口元が緩んでいく。
 足元では凍ったアスファルトが月の光に当てられて、ガラスをばら撒いたように光っている。
 行きましょ。
 一メートルは、先にいただろうか。その時の沙織の顔を、忠彦は今でもよく覚えている。
 孔雀だ、この女は。しかもオスの孔雀。
 羽を広げて誘惑する、オスの孔雀。
 いいよ、行こう。
 一歩を踏み出すまでに、そう時間はかからなかった。
 孔雀の女に連れて行かれた店は、繁華街を抜けた路地の片隅にある、お世辞にもきれいとは言いがたい店だった。窓ガラスの向こうには、一目で建築土方とわかる男達が、カウンターを囲んでいる。沙織はぴんと背筋を張り、まるでそこが自分の家みたいに入っていく。
 こんばんはー、今日も寒かったわあ。
 テーブル席もない、床はコンクリートでできた、椅子をぐるりと囲まれたカウンターだけの店に、沙織は座っていた客の連中を少しづつつめさせて、二人分のスペースを確保していく。
 いらっしゃいよ、何やってんの。
 コートを脱ぎかけていた手を止めて、入り口に立った忠彦を振り返る。
 なんだよー、また違う男を連れてきたのかよー。
 咽をつぶした店主が、恐ろしく耳障りの悪い声を張り上げる。
 失礼ね。職場の人よ。何にする? 焼酎でいい? それならボトルが入ってるの。
 いいよ、何でも。
 丸い椅子に腰かけると、コンクリートの床のせいか、それとも椅子のせいか、がたがたと不安定に揺れた。
 孔雀は当たり前の顔をして、料理を注文していく。焼き鳥とモツ煮をメインにした店では、大きな寸胴がコンロにかけられて、ぐつぐつと音を発し、白い煙が立ち込めている。
ハツ、シロ、皮。それにミノね。あと、ハチノスある? あったらそれを焼いて。後はモツ煮ね。あなたは何にする?
散々っぱら注文した後で、横を向いた。目元と口元に細い皺がいくつかできている。孔雀が言うとおり、そんなに若くはないのかもしれない。あるいは、自分よりも年上か。
想像をめぐらす忠彦の隣では、湯気がたつおしぼりで、孔雀が指の間まで丹念に拭いている。
 忘年会の会場にいたときとはまるで別人のようによく笑い、酒を胃袋に収めていく。そのくせ顔色が変わるわけでもない。半分ほど残っていた焼酎のボトルをわずかの間に二人で飲み干した。ついでに新しく入れたボトルを飲み切ると、さすがにアルコールが全身を侵し、足元がふらついた。孔雀にタクシーに乗せられたところまでは覚えている。そこから先の記憶はなく、気が付いたら朝になっていた。
その頃から不眠に悩まされていた真美は、朝から不機嫌だった。朝食の支度をしながら、くぐもった声で忠彦を非難した。
作品名:雪のつぶて6 作家名:李 周子