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ニューヨークの音楽家

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『ニューヨークの音楽家』

 昨年の夏、古い友人である館川雄一を訪ねた。彼の叔母にどんな暮らしをしているのか、訪ねて見てきてほしいと頼まれたのである。
 彼が住んでいたのはニューヨークの貧民窟。そこはあらゆる人種がごっちゃまぜになって暮らす。ヤクザまがいの連中や安い金で体を売る娼婦、昼からぶらぶらとしている若者。そして、夢を追いながらも、いまだに果たせずにいる人間。彼らを一言で形容するのは難しい。なぜなら、彼らの思いも、哲学も、生き方も、何もかも異なっているからだ。唯一共通しているのは、文句なしに貧しいということだ。

 迷路のような細い道を通り抜けると、彼の住むアパートがあった。アパートのまわりはゴミ箱を蹴っ飛ばしたように、いろんなものが散らかっている。どこからも悪臭が漂ってくる。
 部屋をノックすると、痩せた体の男がドアを開けた。しばらくして館川雄一であることが分かった。
「北村だ、北村孝之だ」
「あの北村か? いったい、何の用だ?」
「君の叔母さんに頼まれてね。どんな暮らしをしているのか、訪ねる機会があったら、訪ねてほしいと言われてね。ちょうど、社用でニューヨークに来た。だから訪ねようと思ってきた」
「余計なことをするな」と迷惑そうな顔をした。
「まあ、入れよ」
通された部屋の窓から隣のアパートの灰色の壁が見えた。部屋の中は、薄暗く、湿っぽく、かび臭く悪臭に満ちていた。テーブルの上も、床も、ベッドも、何もかもが物で溢れていた。その物が、ごみなのかどうか容易に判別つかない。
彼はコーヒーをいれてくれた。
「ずいぶんと変わったな」
「お前と最後にあったのはいつだ?」
「五年前くらいだろ」と答えた。
「五年か、ずいぶんと前だ。遠い昔だな」
「ずっとニューヨークにいるのか?」
「あちこち、ピアニストとして転々としたよ。でも、今はこのニューヨークにいる」と彼は自嘲気味に笑った。
「病気でもしているのか?」
「悪い病気を患っている。でも、医者にかかる金はない」
そういった彼をあらためてじっくりと見た。三十代には、とても見えない。五十に近いと言われても驚かない。それほど老けていた。
「日本に帰ろう」と言ったら首を横に振った。
「どうして?」と聞くと、
「今さら帰れるか」
「まだ、やり直せるだろ?」
「冗談はやめてくれ。俺は地獄の底に落ちた。一生、抜け出せない。その地獄の底で命の炎を燃やし尽くす。それが定めだ」
「そんなことはない。人の一生は、誰にも分からない」と言うと、彼は微笑んだ。その笑みは遠い昔の子どもの頃のようであった。
「お前の言うとおりだ。人の一生は分からぬ。何が良いのか悪いのか。だが、確実に言えるのは、全て消える運命にあることだ。詰まらぬこだわりも、わだかまりも。みんな消える運命にある。何が良いのか。何が悪いのか。分からぬ。全ては消えるだけ……。疲れた。ゆっくりと休みたい」
「何を馬鹿げたことを」と言うと、
 彼は寂しそうに笑った。
「馬鹿げたことと思うだろうね。普通で平凡な生活を送ってきた人間には。ところで、君に夢はあったか?」
 彼は音楽家になるという夢のためのみに生きてきたが、運悪く、その夢を果たせずにいる。そして、誰にも知られることもなく、静かに命の炎を消そうとしている。ある意味、彼は夢の殉教者だ。それに対し、夢のない自分は人生の傍観者にすぎなかった。傍観し批判することはやさしい。そして何より安全である。そんな生活にあるのは、豚と変わらぬ安穏とした幸せである。豚のように食って寝て遊んで死ぬだけ。
「なかった。夢などみたことはない。見ようと思わなかった。つまらぬ夢は体に毒だ。身を滅ぼすだけだ」
「そのとおりだよ。夢など、馬鹿げた話だ。俺が、どうしてここにいるか、話そうか」と過ぎた日々を語りはじめた。
 
――音楽家になること夢だった。同時に母でも夢あった。その夢のために、東京の音楽学校を出た。世界の檜舞台にのぼるためにニューヨークに来て、一年が経った。その時、二十五。まだ檜舞台に立てなかった。東京から一緒に来た友人の一人はすでに世界のピアニストとして活躍していた。また、ある者は有名な指揮者の弟子になって、今にも一流のオーケストラの指揮者になろうとしていた。しかし、彼は、昼間はバイトをして、夜は場末のバーでピアノを弾いていた。いつの日かピアニストとして世界の檜舞台に立つために。好きな女性がいた。同じアパートに住み、昼は音楽学校に通う四歳年下の洋子。大きな瞳をしたかわいい女だった。彼女も同じような貧しい家庭の出で、同じ夢を抱いていた。二人の関係は同じ夢を追う同士のような関係だった。洋子は、夢を追い求めている雄一を心から尊敬していた。雄一は恋人関係になりたかったが、最後の一歩を踏みこめなかった。自信がなかったからだ。
 ニューヨークで孤独感を感じなかったのは、それは彼の心の中にいつも母がいたからだ。それを捉えてマザーコンプレックスと呼ぶのは自由だが、そんな単純なものではなかった。母と子、互いとって、ともに生きる支えだったのだ。片時でも母のことを忘れたことはなかった。しかし、彼は、自分が弱く頼りない人間だと思われるのを恐れて、ろくに電話もしなかったし、手紙も書かなかった。だが、母の方からは毎月長々と手紙が届いた。
母は家が貧しくて高校に入れなかったことが悔しくて、そんな思いを息子だけにはさせたくなくて、夫に早く死なれたにも関わらず、まさに身を削るような思いで働き、そして音楽学校まで入学させたのである。
「音楽にも何でもそうだが、努力が基本だ。しかし、最後の一パーセントは天分だ。あなたの息子は無口で恥ずかしがり屋だが、優れた感受性とセンスがある」と中学の先生が母親に言った。
「先生、本当に息子に音楽の才能はありますか?」
「あります」
 おそるおそる母親はもう一度聞き返した。
「音楽の才能はあります?」
 先生は確かにあるという意味でうなずいた。そのときの母親の本当に嬉しそうな顔をした。その時の笑みを雄一は生涯忘れることはなかった。その笑顔をもう一度見たいために、彼は頑張ってきたのだ。雄一は分かっていた。母が自分の全てを自分のために犠牲にしてきたことを。化粧もしない。手は男の手のように荒れ、晴れ着らしい晴れ着の一つもないことを。それでも母親は息子に愚痴をこぼしたことはなかった。
 洋子にそっと夢を打ち明けたことがある。
「カーネギーホールでピアノの独演会を開くことが僕の夢だ」
「あなたならできるわ」と洋子は励ました。
 しかし、夢は夢でしかなかった。何回コンクールに受けても入賞できなかった。優しそうな審査員が、彼に「人生の選択肢は必ずしも一つじゃない」とそっと囁いたことがある。それは明らかにピアニストの夢を捨てろということだった。それを母にも洋子にも告げることはできなかった。実をいえば、ずっと前、たぶんニューヨークに来たときからうすうす気づいていたのだ。才能がないということに。
作品名:ニューヨークの音楽家 作家名:楡井英夫