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雪のつぶて1

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道内の市内にたった一つだけある総合病院は雪に埋もれ、建物なのか空なのか、判別が難しくなっていた。白い息を吐き出しながら薬品名が書かれたダンボールを二つ抱え、忠彦は薬局に足を進ませていく。
外来の診察がピークを過ぎたせいで、薬剤師達の動きが緩慢になり、昼の準備を始めているスタッフもいた。そんな中で長い付き合いのある薬局長の柿崎は、これまでこの病院では見たこともないパソコンの前に座り込んで、頭を抱えている。
「こんにちは、パソコン導入したんですか」
 ダンボールを隅に置き、新しく発売されたばかりのインシュリンのパンフレットを脇に挟み込んだ。
「そうなんだよ。なんでも今度うちの病院でも電子カルテを動かすことになったらしい。毎日のようにデモや説明会なんだけどね、古ぼけた頭には何も入ってきやしない」
 髪が薄くなった頭を叩き、かけていた眼鏡を外すと、眉間を二本の指で揉み始める。
「遅いくらいじゃないですか。このあたりの大手の病院はみんな使ってますよ。最初は大変かもしれないですが、実際の稼動が始まれば、仕事の量は減りますよ」
 椅子に肉付きのいい背中を、柿崎は押し付けていった。
「そうだって言うんだけどねえ。何しろキーボート一つ打つのも手間に感じてるくらいじゃあ。うちでも文句ばかり言ってるのは、定年近いやつらだけで、若い連中は喜んでるよ。それよりも、新城くん、どうしてる? 元気にしてるかい。結婚して二年もたつのに、新城くんなんて言っては駄目か」
「はい、元気ですよ」
「子供ができて、身動きが取れなくなる前に、一度、顔を見せに遊びにおいでって伝えておいてくれよ」
柿崎は貫禄のある腹を揺さぶり、咽の奥を見せ付けた。
 医療関係の専門学校を出た後、結婚するまで妻の真美は外来クラークとして働いていた。忠彦ともここで知り合っている。
「わかりました。言っておきますよ。ついでに新しい薬が発売されたので、そのパンフレットを置いていきます」
 真新しいパンフレットを受け取った柿崎は、眼鏡のフレームを持ちあげて、腕を目一杯に伸ばしていく。
「ああ、新しいカートリッジタイプのインシュリンだね。後でよく見ておくから。最近、文字を読むのも辛くてね。こんな年寄りが、今更パソコンなんて覚えてもねえ。それと、明日は大丈夫かな」
「もちろんです」
 くるりと椅子の向きを変えて、忠彦を見上げる。柿崎は鼻の頭に、汗の粒が浮いていた。
「じゃあ、明日は七時に。新城くんにはこっちから連絡をしておこうか」
「大丈夫ですよ。飲みも仕事のうちですから」
「そうそう。女房のしつけは大切だからね」
 突き出た腹をさすり、豪快に笑った後で、じゃ悪いけど、これから休憩なんで、と席を立った。
柿崎が立ち上がると、つられて動き出すスタッフがいた。残されたのは去年の四月に入社したばかりの若い薬剤師と窓口に立って、訪れる患者に薬を渡しているヘルパーだけだった。
 納品を終えた忠彦は、ヘルパーの美野里の肩を叩いた。声をかけられると思っていなかったのか、美野里は頬の肉を震わせ、両方の肩を縮み上がらせた。久しぶりに見る美野里の顔は全体に赤らみ、吹き出物が頬や額にできていた。
「いつ、病棟からこっちに移動になったの?」
「今月の十日からです」
 散らばっていた処方箋を、美野里は荒れて、赤く腫れ上がった手で掻き集めていく。三角巾におさまりきらない、水分をなくした髪が乱れている。
「ああ、そうなんだ。真美から何も聞いてなかったから、びっくりしたよ」
「まだ、話しをしてませんから」
 エアコンの風に流された髪が、吹き出物の頬を叩いている。美野里は顔の吹き出物を気にしてか、顔を横に反らしていった。
 美野里は、真美の幼馴染だった。中学までは一緒だったと聞いている。高校は別々になったが、社会人になってからまた同じ職場で働くことになり、付き合いが復活したのだという。結婚式にも美野里はやって来ていたし、家にも何度か遊びに来たこともある。こうして病院で会えば、挨拶くらいはする。妻の友達は、その程度の付き合いだった。
「あの、真美は、元気ですか」
 端っこが折れた処方箋を指の腹を使って、美野里は真っ直ぐに伸ばしている。
「元気だよ」
 懸命に指を動かしながら、美野里は鼻の穴を膨らませ、大きく息を吸い込んだ後で、思い切ったように口を開いていく。
「この前電話したら、いろいろ言ってましたけど。忠彦さん、もう少しお話しを聞いてあげたらどうでしょう。真美は繊細なんです。今のままじゃあんまり真美が可哀相ですよ。通っている病院も変えさせたほうがいいです。真美はうつ病なんかじゃないですから」
 美野里は何度も何度も同じ箇所をなぞっていく。処方箋の折り目は変わらない。
 忠彦は鼻の頭に皺を寄せた。
「君に言われる筋合いはないよ。真美のことを心配してくれるのはありがたいけど、夫婦のことは放っておいて欲しいな。友達でも、限度って言うものがあるだろう」
 耳元に近付き、声を低く押し殺していたのは、もう一人、残されたスタッフを意識していたからだった。
 唇を真一文字に結び、美野里は手の動きを止めた。
「すみませんでした」
 聞こえてきたのは、奇跡だった。忠彦は首を曲げて、残されていた薬剤師を見る。新しい処方箋が回ってきて、彼女は忙しそうに薬品棚の間を動き回っていた。忠彦はその場を後にした。美野里なんかに話しかけたことを後悔しながら。初めて会ったときも思ったが、美野里は辛気臭く、会っているだけで気が滅入る女だった。真美がどうしてこんな女と友達なのかそのときは疑問でならなかったが、今ならよくわかる。背広のポケットに手を突っ込んで、車の鍵を握り締めた。病院の中の空気に触れていないせいだろう。手の平に痛みが走るほど冷たかった。
 製薬会社に入社してから、五年近い月日が流れている。この病院との付き合いも長くなっていて、院内のいたるところに知り合いも多い。慣れた仕事、慣れた人間関係。自分が想像した以上に、人生がうまくいっている。ただ一つ、二年前にした結婚という行為を除けば。
十二時を回ってもまだ混み合う待合室を抜けていく。裏手から外に出ようとしたときだった。ピンク色の白衣を着た義妹の由美子が、銀色のトレイを持ってどこかに歩いていく姿が、視界の片隅を横切った。そう遠くない距離だった。声をかけようかと一瞬考え、そしてやめた。
 ふっくらとしていた頬が削げ落ち、由美子は血色の悪い顔をしていた。
 後一月もしないうちに看護婦の資格試験、それが終われば卒業試験が待っている由美子には充分な睡眠すら取れないのだろう。当然、実家に帰る時間などなく、たまに妻の両親に会うと二人は決まって帰らない由美子の様子を聞き出したがった。疲れ切っている由美子に声をかけることはためらわれ、このところ妻の実家から忠彦の足は遠のいている。
 実際忠彦も、夏休みに寿司屋で言葉を交わしてからは、挨拶すらろくにしていなかった。
 見えなくなる後ろ姿に忠彦はエールを送る。
 がんばれ、由美ちゃん。
作品名:雪のつぶて1 作家名:李 周子