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ニューヨーク、帰るところがない女

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『ニューヨーク、帰るところがない女』

帰るところがない女がいる。いやはじめからそんなものはなかったのかもしれない。どこで生き、どこで死ぬべきなのか、それさえ分からなくなってしまっている。彼女の名は愛子。
愛子が住んでいるところはニューヨークの貧民窟。そこは悪臭のどこからもなく漂って麻薬中毒者がいて、娼婦がいて、病人がいて、それに仕事のない若者が屯する。
彼女が住むアパートは荒れているが、気にしていない。すさんだ生活をしていうちに綺麗にしようとかいう気持ちはどこかに忘れてしまっていた。
ただ、じっと部屋で待つ。セックスだけを目的にする男を。確かなのは体だけ。心に引っ掛かるものは、それが愛であれ、憎しみであれ、もう受け付けることはない。ただ、今は何もかも忘れさせるほど強く抱き締めて欲しいという願いだけ。

扉が開く。男が入ってきて、ベッドに腰を下ろす。タバコに火をつける。愛子の髪を撫ぜる。始まりの合図だ。目眩くような愛の擬態の始まり。疲れだけが残る透明な時間の始まり。  
遠い昔、愛子は八年近くも一人の男を愛し続けた。そこから彼女の意思の強さというものを知ることができるだろう。愛した男信吾(今でもその名を聞いただけで彼女は胸が締めつけられる)に捨てられたあの日から何もかもが変わってしまった。旅立ちの朝、信吾は何も語らずに去った。それが八年間、愛した報いだった。愛されなくなったのは、それよりもずっと前のことだ。
二人が出会ったのは、大学に入ってからである。同じ教室で机を並べ、同じサークルに入って、恋が芽生えた。そして夏休みが終わる頃には、同棲を始めていた。一日のうちに何度も抱き合って時間が過ぎるのを忘れた。互いの若さを、愛の深さを確かめるかのように。
大学を卒業した後、信吾は中堅の商事会社に入社した。愛子は希望した会社に入ることが出来ず小さな会社に入った。
会社に入ると色々と理由をつけて、信吾は部屋を開けることが多くなった。学生時代には嫌な顔を見せたことがないのに、その頃から嫌な顔をすることがあった。それが何であるか、愛子には分からなかった。愛に亀裂が走ったのか? そんなことはない。今でも夜は互いの愛を確かめるように互いの体を求める。馬鹿馬鹿しい。では、自分が韓国籍だから? と思うようになったのはその頃だ。何度、信吾の気持ちを確かめようと思ったことか。言葉が喉まで差し掛かると、言葉出なくなる。じっと見つめていると、愛が失いたくないという気持ちで一杯になるのだ。信吾は口にしなかったが、外国人、特に韓国系が嫌いだった。
「アメリカに行くことになった」と言い出したのは、入社して三年目のことだ。
「アメリカへ?」と愛子が恐る恐る確認すると、
「そうだよ」とそっけなく答えた。
気まずい沈黙の後、思い切って尋ねた。
「私は、どうするの?」
「三年くらいすれば、日本に戻れるさ」と信吾は微笑んだ。他人じみた笑みだ。たぶん、すでに愛子と別れることを考えていたのであろう。
「三年も待つの?」と今にも泣き出しそうな顔をした。
「別に待つ必要なんかないさ」
「わたしも連れていって」
「今は駄目だ」
「どうしてなの?」
「女を連れていったら、出世に響く」と答えた。
 私よりも出世が大事なの? と尋ねたかった。出てきた言葉は違っていた。
「お願い、独りにしないで」
 信吾は何度も駄目だと言った。誰にも分からないようにするという条件で漸く信吾も納得した。
アメリカ、自由の女神のあるニューヨーク。信吾はアメリカの支社で働き、愛子はレストランで働いきながら学んだ。
二人はまた同棲を始めた。愛子は何度も結婚を迫ったが、まだ早いと言って拒絶された。そのうえ、気分が悪いと叩くようになった。彼の眼中には、仕事しかなかったのである。愛子は単なる欲望の捌け口でしかなかった。愛子はもはやセックスするための人形でしかなかった。人形は逆らったり、口答えしたり、気に障ることを言ってはならないのだ。愛子の心の中は全て信吾への思いで満たされていたのに。
 アメリカに来て二年が過ぎた。愛子は二十七になっていた。もう充分に若いとはいえない。信吾が日本に帰ると言った。
「日本に帰ったら結婚してほしい」と懇願した。
信吾は返事代わりに叩いた。まるで罰するかのように叩いた。顔がまるで餅のように膨らんだ。泣いていいのか、笑っていいのか、自分でも分からないくらい惨めな気持ちに襲われた。漸く取り返しのできないほど、信吾の心は遠くに行ってしまったことに愛子は気付いた。
さらに一年が過ぎた。愛子はニューヨークにいる。前よりも美しい服を着ているが、どこか虚ろな眼をしている。頬の肉も落ちた。信吾が見たなら、愛子とは別人だと思うだろう。美しい服を着て、ホテルで男を待つ。身も知らぬ男達を。ただ体だけが目当ての貪欲な男達を。  
週に一度だけ愛しい男が訪ねて来る。同じ韓国系だ。信吾と別れた後で、唯一慰めてくれた男。怒ると訳の分からぬ異国の言葉を喋る異邦人。セックスの後、愛子が稼いだ金を殆ど持っていく。 愛子と男がセックスを終えた後、ふと窓の外を見ると雪になっていた。 「雪が降っているわ」
その年のニューヨークは例年になく寒かった。まるで、夢のように降ってくる。遠くて懐かしい記憶がいやがおうでも蘇ってきた。そうだ、信吾と始めてスキー場に行った時もこんな雪が降っていた。
「雪なんか、どこでも降るさ」
「韓国でも?」
「ああ、韓国でも、日本でも、このニューヨークでも」と金を数えながら言った。
「ちょっと稼ぎが悪いな」
「風邪を引いたの」
「風邪ぐらいでなんだ!」と男は愛子を殴った。
 愛子の眼から涙が流れた。悲しみが止まらないのだ。
「もっと殴ってよ!」と愛子は懇願した。
男は部屋に唾を吐いて出ていった。