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この手にぬくもりを

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「奥様が羨ましい。私も子供さえいなかったら……」
 やつれた彼女の唇からこぼれたその台詞を、複雑な思いで聞く。
 杉山元元帥が自決したのは、最初の戦犯逮捕命令の直後だった。元帥自身の名は逮捕者の中にはなかったが、無関係ではないだろう、ということだった。
 それだけなら、また要人が自決した、と思っただけかもしれない。
 電話で杉山元帥自決の知らせを聞いた夫人が、自宅で一人、短剣で喉を突いて後を追った。喜久子にとっては、人ごととは思えない衝撃だった。
 そして、先月夫を失った阿南綾子にとっても同様だった。
 彼女は、夫と共に逝けないことを悔しがっていた。喜久子のように勇気がないからではない。
 夫の言葉無き遺志のために、生きねばならないのだという。
 以前の喜久子ならば、夫の後を追って死んだ杉山夫人、それを羨む綾子を、そろって否定してやりたくなったことだろう。
 死ぬことが一番だという考えと、無言の内に取り交わされ美談となる夫婦の約束。喜久子が一番納得できない考えだった。かつては、夫婦の愛は死に収束するものではないと、自信を持って言えた。
「お子さんが小さくなかったら、あなたもああしたって言うの」
 葬儀の帰り道、喜久子はそう尋ねると、綾子は頷いた。
「本当は、今でも」
「それは……実際に亡くなって……しまってから思うの?」
 綾子は少し考えて、ゆっくりと口を開いた。
「ずっと前からです。……あの人がいない世界なんて、生きていても仕方ないですもの」
 それは、とても幻想的な言葉だった。喜久子が、若い頃に憧れたような台詞だ。
「あの人の遺志だから、出来ないだけです」
「死ぬな……って?」
 肯定を期待して、喜久子は訊いた。綾子は首を横に振った。
「何も、言ってくれませんでしたから」
 寂しそうに呟く綾子の中に、一瞬、確かに光が見えた。
 やはり、彼女も「言わなくても分かる」のだろう。何も言わないのは、言わなくても伝わるから。それほどの信頼と愛情で結ばれている。
 それが喜久子には羨ましかった。
「私は、怖い」
 夫が自決したのを確認してから、冷静に後を追うことも、何も言ってくれなかった夫の遺志を、確信を持って受け止めて生きることも、喜久子には出来そうもなかった。
「板垣様は、生きて立派にお勤めを果たされる方でしょう」
 綾子の慰めの言葉に、喜久子は黙って頭を振った。
「何も言ってくれないのが、怖いの」
 そしてその時、自分はどうすればよいのか。
 どうするのが夫の望みなのか、喜久子は知る術がない。彼が死んだ時の覚悟は、求められてきた。
 しかし、それは板垣が戦死した場合で、自決した場合は、そして……処刑、された場合は。
 全身に寒気が走った。
「死ぬより辛い目に遭わせてしまうかもしれないのに」
 きっと板垣は何も言わない。恨み言も、愚痴も、喜久子にどうして欲しいかも。
 一緒に死んでくれと言われれば、喜久子はためらいも無く頷けるだろう。
 ただ、あの剣で自分を貫けるのか、それは未だに自信がなかった。

 その頃、日本中が東條英機の自決失敗を笑っていた。
 戦争に負けて自決するのと、戦争犯罪人指名を受けて自決するのでは、自ずと印象も変わるのか、世間は逮捕者に冷たかった。
 そんなことに構っていられるほど、多くの人間に余裕がなかったのも事実だった。
 板垣家は幸い、住むところに不自由はしなかったものの、いわゆる竹の子生活で食いつないでいくしかなかった。
 終戦時に朝鮮の部隊にいた正の消息も不明のままだった。何事も、とにかく生きて、待つしかない。
 よく考えれば、それはあの日から何も変わってはいないのだった。
 自分たちのことに必死で、他人の動向に構うゆとりもなかったが、新聞に出る逮捕者の名前は、喜久子を不安にさせた。見知った名前は、かつての政府・軍の要人であり、次には板垣征四郎の名があるのではないかという、不安をかき立てるのだった。

 十月半ば、正の消息をつかむために立ち寄った軍の施設で、喜久子は本庄繁に会った。
 本庄は二・二六事件の後に退役していた。既に七十近かったが、退役軍人らしく、背筋が伸びている。
 お互い、近況報告をして慰め合う。本庄は今、退役軍人補導会の職員をしているのだという。
「大変なことになりましたね。私はもう退役した身ですからまだ良いが、板垣君はなかなか帰ってこられなくて大変でしょう」
 喜久子はその柔らかい声にほっとする。
「そのほうがいいのかもしれません。引き上げてきたら、逮捕されるのではないかって」
 兼二は、喜久子を安心させるためか否定していたが、板垣が逮捕者リストに載っていないわけがない。
 ずっと要らないと思っていた知名度や名誉を、今では恨まずにいられなかった。
「大丈夫ですよ。引っぱられるとしたら、まず私でしょう」
「それは……どういう」
 本庄はただ、かすかに笑うだけだった。
 別れ際、喜久子は思い切って聞いてみた。
「もし、指名を受けた場合……」
 逮捕や犯罪という言葉をさけつつ、喜久子は言葉を選ぶ。
「やはり、軍人として死を選びますでしょうか」
 本庄はわずかに目を細めた。少し考えてから、ゆっくりと口を開いた。
「そうありたいと思っています」
「……そうですか」
 喜久子は顔を伏せた。やはり、と唇を噛みしめる。
 本庄は続けた。
「責任は感じていますから」
 顔を上げると、本庄は力無く微笑んでいた。
「……立派なことを言っていますが、怖くてたまらないんですよ」
 喜久子は驚いた。男性、しかも元軍人からこのような言葉を聞くとは思わなかった。
「責任の果たし方は、人それぞれです」
 最後に本庄はそう言った。
「でも奥さんは、きっと私を恨むのでしょうね」
 その時は、別れ際のその言葉の真意も意図も分からなかった。しかし何故か、強く印象に残った。
 その表情と声色が喜久子の中から消え切らぬ内に、本庄繁は自ら命を絶った。
 十一月、新たな戦争犯罪人の逮捕命令が出た直後のことだった。
 
 板垣の責任の果たし方も、このような形になるのだろうか。葬儀に出席した喜久子は、本庄の遺影を眺めながら、そんなことを思った。
 だとしたら、今度こそ覚悟しなければならない。
 敗戦の際に決意したはずだったのに、その知らせがないまま三ヶ月が過ぎ、つい、もしかしたらこのまま無事に済むかもしれない、と思ってしまう自分がいた。
 逮捕命令さえ出なければ、と心の片隅で考えていたのだ。しかし、夫の性格上、本庄をこのような形で亡くして、自分だけが何事もなく生きることを潔しとしないだろう。
 喜久子には詳しいことは分からない。ただ、戦犯として逮捕されるのは、米国との戦争に関わった物だけではないのだと、事の大きさに漠然とした恐怖を感じていた。そして、板垣がそこに巻き込まれた時、すべてが終わるのだ。
 幸せになれなかった。愛し愛され、お互いを分かり合って育む、暖かい毎日。それだけを望んで、ずっと生きてきたというのに、何も手に入れることがないまま、終わってしまう。
 最後まで、何も言ってくれなかった。
 言わなければ、伝わらないのに。


作品名:この手にぬくもりを 作家名:くりはら