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この手にぬくもりを

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 さほど広くないホールに響く声は高く、口調は早かった。
 婦人会の集まりにお決まりの、大臣夫人の講演である。講演と言うほど立派なものではない、ますます激しくなる戦況への努力、協力の呼びかけ、というものだった。戦況はますます熾烈になり(悪化とは絶対に言わないのだった)、生活上の不安、不満も多いだろうが、夫を信じ、勝利を信じ、銃後を守っていこう……と、壇上の東條勝子は訴えた。
「家や親や夫や子供のために喜んで下積みになり、自分を捧げきってゆくのが日本婦人の美徳です。私どもは、純綿の裏地になりましょう」
 ひときわ高く、勝子がこう言ったところで、前方に座っていた麻子は、肩をすくめた。婦人会に出ると、最近はいつもこれなのだ。うんざりもする。
 隣に座った喜久子は、大人しく聴いているようで、あまり身を入れていないようだった。
 麻子が思うに、最近の生活の中で一番煩わしいのがこれである。国防婦人会なるものが出来て昔以上に主婦同士の関わり合いが避けられない。一応、参加は任意なのだが、ほとんど強制参加に近い状態である。入らないで済まそうとしたある夫人の所に、わざわざ出向いてネチネチと言う人がいるらしい。
 勝子の話題は、いつの間にか食糧不足への対応と工夫の知恵話になっていた。主食の米は玄米の方が良い、体に良いし、おいしい、と大臣夫人自ら推奨している所だった。
「本当かしら、玄米は体に悪いって、この前新聞で読んだけど」
 喜久子がふと呟いたのと、会場の一瞬の静寂が重なった。高い声にかき消されるはずだった言葉が、周囲にはっきりと聞こえる結果になり、勝子がハッと喜久子の方を見る。喜久子は慌てて口を押さえたが、それではすすんで自分が犯人だと示しているようなものだった。
 会場が静まりかえったのはわずかの間で、すぐに周囲がざわざわし始める。勝子は咳払いを一つして、何事も無かったかのように話を再開した。

「天下の大臣夫人に喧嘩を売って、どうなっても知らないわよ」
「大臣夫人だからって、どうにもならないわ」
 その肩書きで何か特権があった記憶がない喜久子は、麻子の前で開き直った。といっても、総理大臣夫人でもある東條夫人と当時の喜久子では、肩書きの数が違う。一応、声をひそめる。
「もともとよく思われていないのよ……お怒りに触れて主人が予備役編入でも、私は構わないのよ」
 喜久子の人生設計より、夫は遙かに偉くなってしまったのだ。そろそろ終わりでも充分なくらいだ。少し大臣夫人の気に障ったぐらいでそうなるのだったらそれでもいいではないか。
 もちろん実際には、妻の振るまいが原因で左遷など、あってはならないことだ。しかし、今や些細な事で人事が動く、というのが専らの噂だった。
「今は気に入らないからって辞めさせる時ではありませんよ」
 そう言って、麻子と喜久子の間に入って来たのは、山下久子だった。
「気に入らない人間、たてついた人間は率先して前線送り。安穏と引退できるとは思わない方がいいですよ」
 はきはきとした口調で、久子は続ける。
「板垣さんが仰った、玄米が体に悪いって新聞に書いたお医者さんも、今は前線の野戦病院らしいですよ」
 声を潜めて、しかし面白そうにうわさ話をする久子の袖を、傍らから連れ合いの阿南綾子が引っ張って窘めた。二人とも、軍人の娘として生まれ、軍人に嫁ぐという人生を歩んでいる。偶然の巡り合わせと言うべきか、本人だけでなく、夫同士も同期生という間柄だった。
「前線に送られるのが懲罰や嫌がらせになるようでは困るっていう話だし、そういうことはあまり言わない方がいいわ」
「そうね、仮にも軍人なら、前線に行くことこそ最高の名誉じゃない。建前としては」
 麻子はそう言って大きく頷いた。
 綾子が顎に手を当てて考え込む。
「一概には建前とも言えないかもしれません。死に場所を求めるっていうのも、あると思いますし」
「それがよく分からないわね。うちの人も、昔からそう言うの。戦場で死にたいって」
 久子は、そんなやりとりを聞きながら、首を傾げる。
「何が分からないんですか。軍人だもの、そのくらい当然でしょう。戦場で死ぬのが、最大の名誉だわ」
 軍人に嫁いだからには、軍人である夫の栄転を日々望み、喜び、いつどこで命を落とそうとも、当然と心得ておかなければならない。久子はそう思って生きてきた。
 今や、夫は国内で知らぬ者はいない有名将軍である。その点では、彼女は成功を収めたと言える。
「引退なんかさせるものですか」
 喜久子のような、早々に隠居して老後をなどという考えは毛頭無いのだろう、きっぱりとした物言いに気圧されながら、喜久子は、久子に尋ねてみる。
「ご立派ね……いつも、どのように送り出してるのですか?」
「特に、なにも。何となく分かりません? ああ、大丈夫、勝ってくる、って。だから普通に見送っています」
 久子の言葉に、皆一斉に首を横に振った。
 その後に、久子は遠い目をして付け加えた。
「そして、もう、帰ってこないのも分かります」
 喜久子は、その横顔から目が離せなかった。同じ立場であるはずなのに、自分とは決して相容れない。超然としたその言葉が、いつまでも胸に残った。


 山下久子は、「分かる」と言う。勝って帰ってくること、そして、もう帰ってこない、ということも。どう分かるのかと訊いてみても、直感で、はっきりと「分かる」らしい。
 喜久子はそんなことを分かってしまいたくなかった。しかし、それが最後の出征だという時に、分からないで見送ってしまうのは嫌だった。
 行く前から死ぬのが決まっている場所なんて、あるのだろうか。それは、本当に戦争なのだろうか。
 どうやったら分かるのだろう。
 直感が働くほど、自分たちは夫婦として分かり合っているのだろうか。不安はいつだって感じる。それでも今までは無事に帰ってきていたではないか。でも、無事に帰ることが分かるサインがあったわけではない。
 次があると決まったわけでもない。
 立派な勲章も、名誉な地位もいらない。
 ただ、無事に帰ってきて欲しい。

 思考がまとまらない。ここ数年、いつもそうだった。
 不安が靄のように、ぐるぐると頭の中を漂っている。はっきりとした形にはならないが、気分は沈む。
 一人、朝鮮から帰ってきた頃から、ずっとこんな調子だった。
 思いは外に出してしまうに限る……と、机に向かったが、思考が言葉になってくれない。作る歌の数も減った。
 不安は別のところにあるのかもしれなかった。
 肺結核で絶望を宣告され、闘病生活を続けている、遠い病院の裕、防空頭巾を傍らに結婚をした喜代子、飛行機乗りを目指す、と嬉々として航空士官学校に進んだ正。末の美津子は福島の母のところに疎開させ、家には中学生の征夫と喜久子の二人が残っていた。


作品名:この手にぬくもりを 作家名:くりはら