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この手にぬくもりを

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 五月半ば、奉天に落ち着くまもなく、板垣は関東軍高級参謀に任ぜられることとなり、一家は旅順に居を移した。
 旅順は、日本の租借地関東州の首都である。日露戦争の激戦地として有名な二百三高地などの丘陵を北に、旅順港に南面した静かな港町だ。
 市街は、海岸から北の山々に向かって、緩やかな傾斜をなしている。街路樹にかげる坂道を下ると、道の果てには海が繋がっている。登れば、まっすぐに続く道の先は二百三高地だと、初めて言われた時には、思わず立ち止まって眺めた。
 大陸ではあるが、日本の租借地なので、日本人も多く、そのための施設や学校などにも不自由しなかった。環境としては悪くはなかったが、慣れないうちに色々なことがばたばたと起き、物珍しさに感動するまもなく、旅順最初の一年は過ぎた。
 来て早々、長男が学校で麻疹をもらってくると、残りの三人にも次々に伝染した。
 慣れない場所で、病気の子供を四人も抱え、夫は出張続きで家にいない。麻疹ぐらいなんとかなる、と喜久子自身も甘く見ていたのだが、一度に四人となると、一時も気が抜けなかった。子供のわがままを聞きながら眠れない夜を何日か過ごし、頼れる人もいないまま、母を恋しく思いながら耐えたのだった。板垣は、ようやく発疹が終わって落ち着いた頃に、見計らったように久々に帰宅したのだが、それを良かったと思うべきなのか、非難すべきなのか、考える余裕は喜久子にはなかった。


 明けて昭和五年、嵐のような麻疹騒動から半年とたたず、また子供がどこからか百日咳をもらってきた。咳き込む子供達を代わる代わる抱き、さすってやる看病の最中、五人目の妊娠に気づいた時にも板垣は留守だった。
 しかもこの後、喜久子も百日咳にかかったのである。
 せっかく眠った子供達を起こしてしまうのを恐れ、必死に堪えても突き上げる咳に呼吸も絶え絶えになる。心配そうに寄り添ってくる子供達を言い聞かせ、女中に任せて別室に寝かせると、喜久子は一人で襲ってくる咳き込みに耐える。
 診察に来た医師は、「大人がかかった場合は軽くて済みますよ」などと言っていたがとてもそうとは思えなかった。
 滅多に病気をしたことがない喜久子は、この時初めて苦しさの中で「死ぬかもしれない」と思った。
 気分が悪いのは咳のせいなのか、妊娠のせいなのかもよく分からない。
 本格的に咳をすると痛いのは喉ではなくて胸なのだ、と妙に冷静に実感しながらも、心細かった。
 咳が出ない時は熱もなく平気なのに、発作のように起こる咳に悩まされる。咳が続くと、体中から吹き出る冷たい汗を拭う事も出来ない。横になっていても辛いので、胸を押さえて座り、ひたすら収まるのを待つ。
 ある日、玄関の方が騒がしいと思ったら、板垣が帰宅していた。心配そうに部屋に入ってくる夫を、慌てて制す。
「うつります」
「平気だよ、昔やったことがあるから」
 そう言って、背中を優しくさすってくれる夫に、喜久子は涙が出そうになった。どうして、この手が今まで支えてくれなかったのだろう。いつも、手の届くところにいてくれないのだろう。
 自分のことを妻として大切に思ってくれているのなら、一番に考えてくれてもいいのに。病気から気まで弱くなっていて、つい、不毛な望みを考えてしまう。
 そんな願い、叶えられるわけがない。
 自分も子供達も、板垣にとって第一ではないのだ。
 つかの間の優しさを感じながら、喜久子は、どうしても泣き言を言えなかった。

 関東軍の参謀になってから、板垣は以前に増して忙しくなった。どんな仕事なのかは喜久子の知るところではないが、満州の各地を回ったり、東京に戻ることも何度かあるようだった。
 元が丈夫なのが幸いしたのか、百日咳を乗り切った喜久子は、九月に次女美津子を出産した。家事と育児に追われながら、旅順の季節は巡り、昭和六年の夏になった。
 「しばらく戻らない」と言って一ヶ月ほど内地に行っていた板垣が帰ってきたのは、八月の下旬だった。新任の関東軍司令官本庄繁中将の旅順着に同行しての帰還だった。
 本庄司令官の新任披露の会に喜久子も招待され、板垣と共に出席した。
「本庄閣下とはご縁があるようですね」
 北京時代を思い出してそう言うと、穏やかに笑ったのが印象的だった。板垣はというと、夫婦揃っての挨拶がすむと、様々な人間に捕まってすぐどこかに行ってしまった。いつものことなので、喜久子も適当に挨拶をこなしつつ、居心地の良い場所を求めて歩き回る。
 同僚と話し込む夫を遠目に見ながら、喜久子は軽い胸騒ぎを覚えていた。
 そんな大げさなものではないのかもしれない。
 ただ、板垣の隣の男───確か石原莞爾といった───が、喜久子はどうも苦手だっ
た。
夫がよく家に招き、なにやら真剣に話し合っている相手はたいてい石原だった。ただそれだけなのだが、夫との時間を取られたような気がして、喜久子は彼に軽い嫉妬を感じる。
 それだけにすぎない。それだけで他人にマイナスの感情を持つ自分が嫌で、喜久子はそれ以上考えるのをやめた。今この時期になんの胸騒ぎを感じるというのだ。
 満州で物騒な事件が多いのも事実だったが、他に何も知らない喜久子に何かが予感できるはずもない。ひたすら待ち、従う身である自分に影響するほど、世の中が動くとも思わなかった。
「また、十日ほど留守にするよ」
 帰宅後、板垣がそう言った。喜久子も別段驚かずに、黙って頷いた。旅順での生活はこの繰り返しだ。家にいる日の方が少ないかもしれない。
「本庄司令官が各地を巡視するんで、その同行だよ」
 続く板垣の言葉に、喜久子は首をかしげた。
「……どうかしたのか」
「いえ、御目的まで仰るのは珍しいですね」
「そうか?」
 夜も遅いというのに目をぱっちり開けた美津子を抱き上げながら、板垣はそう短く応える。
「美津子はまた大きくなったなあ。もう一歳か、早いな」
「あまり興奮させないで下さい。最近宵っ張りで困っているんです」
 そう言って喜久子は、父の膝ではしゃぐ美津子を取り上げ蒲団に寝かせた。美津子が寝付くまで、二人は無言だった。もっとも、喜久子は、てっきり板垣も寝たのだと思っていたため、不意に声をかけられて軽く驚いた。
「喜久子」
「はい」
 美津子を起こさないように声を潜めつつ、喜久子は板垣の方に向き直った。
「またしばらく家を空けることになるけど……」
 歯切れ悪く言いよどむ夫の言葉を遮って、喜久子は笑った。
「今さら何を言うんですか。いつものことですから、大丈夫です」
 そう、いつものことだ。それなのに、どうして彼は、いつもと違うのだろう。その雰囲気を感じたくなくて、喜久子は蒲団を整える手を動かしていた。
「いつものこと、か……」
「そうですよ、もう慣れました」
 本心とは裏腹のことを言って、喜久子は部屋の灯りを消す。部屋が闇に落ちると、板垣が呟いた。
「信じてくれるかい」
「何を、ですか」
 喜久子は、咄嗟に聞き返してしまう。板垣はまた黙ってしまった。愚かな返答をしてしまった、と喜久子は自己嫌悪に陥る。どんなことでも、夫のことを信じているに決まっているのに。事によっては信じない、と言ったことになってしまう。
「ごめんなさい、私」
作品名:この手にぬくもりを 作家名:くりはら