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この手にぬくもりを

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大越中佐





 明治三十八年三月七日。

 歩兵六連隊は最大の激戦地、李官堡を死守していた。負傷した連隊長に代わり、後方旅団本部への重大報告を携え、第二大隊長大越兼吉少佐は、敵の包囲網を突破した。
 伝令卒を一人従え、弾丸が飛び交う中を駆ける。

 大越は、無傷ではなかった。右足に弾丸の貫通創を負っているにもかかわらず、鬼神のごとく戦線を駆け回ってきた。
 しかし、半分も進まぬうちに、弾丸の雨が大越を襲う。左腹部を中心に、数カ所に被った傷は、どれも重傷だった。

「少佐殿!」
 倒れた大越に、伝令卒が駆け寄る。大越はそれを手で制した。
「構うな。行け」
 伝令卒は頷き、一礼して駆けだした。
 傷口を押さえながらも顔を上げ、伝令卒の遠ざかる姿を見守った。
 傷を押して、大越も足を進めた。辺りに人影はない。平野が荒涼と広がり、近くには死体が横たわっているだけである。銃声が遠く響いた。
 元は畑であったのだろう、高梁の刈り取られた根株に覆われた地に差し掛かった時、大越は膝をついた。空を仰いで、伝令卒の無事を祈る。もう、自分が任を果たせないのは分かっていた。身を隠すのに好都合な切り株が見えたが、体がいうことをきかない。
 地面に倒れ、伏せると、さまざまな思いが胸中を交錯した。李官堡を固守している将兵の苦戦を思うと、無念だった。


 その時、切り株に身を寄せ伏せていた一人の負傷兵が、驚いて顔を上げた。
 突然倒れた人間は、士官のいでたちである。慌てて起きあがり、傍らに這い寄る。彼もまた、片足の関節を砕かれていて、歩行が困難だった。
「傷はどこですか」
「……第二大隊長大越兼吉だ」
 兵は驚いて大越の顔を見た。
「自分は第六連隊第一中隊の一等兵、濱島であります。……お尋ねしましたのは傷の場所で……」
 濱島の声は震えていた。自身が、とんでもない瞬間に立ち会っているのではないか。落ち着け、落ち着けと頭の中で繰り返す。
「そうか」
腕の中の大越は、非常に冷静に見えた。
「傷は数えきれん。どこもかしこもだ」
 濱島は、自分の背嚢を下ろして切り株の側に置いた。先ほどまで伏せていた場所を大越に譲り、自分は背嚢を盾に身をかがめる。
 包帯を取り出して、大越の傷に施そうとすると、彼は首を振った。
「止めろ。この傷では本部にはたどりつけん」
 どうしたものかと、濱島が戸惑っていると、大越は腰の鞄に手を伸ばした。
「手を貸してくれ」
 濱島は促されるままに、数々の書類を取り出して大越に渡した。大越は、それらを一つ一つ寸断していく。
 そして、徐に鉛筆を手に取り、紙に何事かを走り書きすると、濱島に手渡した。
「この書を本部の旅団長閣下に。もうじき日が暮れる。闇に紛れて匍匐していけ」
「……」
 濱島は緊張した面持ちで頷き、書を懐に仕舞い込む。
「途中、敵に逢ったら必ず裂いて捨てよ」
 濱島はもう一度頷いた。このまま自分が行けば、大越が無事で済まないのは分かっていたが、命令に背くことは出来なかった。
「……御遺言などありましたら、承ります」
「ありがとう。だが遺言はもう済んでいる。必要ない」
「ならば、せめてお国元の御住所を……!」
 濱島の懇願に、大越は漸く頷いた。手帳の一頁を切り裂き、自分の住所と、濱島への感謝を書いて渡した。
 濱島は感激して、それを押し戴く。

「では、参ります」
 濱島の敬礼に答礼した大越は、服装を正した。腰の軍刀を抜いて確かめながら、呟く。
「多くの部下を死なせた……彼らの両親の心中が思いやられる」
 呆然として聞いていると、大越は俄に声を高くした。
「お別れだ」
 と、彼は突然手に拳銃を取った。
「おやめ下さい!」
 濱島は驚き、諫めようと拳銃に手を伸ばした。銃口が反れて自分の方に向く。そこで彼が一瞬躊躇した隙に、大越は引き金を引いた。

 轟然一発。弾丸は大越の額に入った。

作品名:この手にぬくもりを 作家名:くりはら