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この手にぬくもりを

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 抱えていたものがなくなった時、これでいいのだろうかと、一瞬不安になる。指一本を動かすのも億劫なほど疲れているのに、頭は妙に冴えていた。
 自分は、「母親」になどなれるのだろうか。
 一人では何も出来ない。苦痛に泣き、母に甘え、縋った。渡された赤ん坊には今までにないくらい感動したけれど、後から心配事が増えた。
 その現実が頭を支配していて、眠れなかった。
 今までの一番の不安は「出産」にあった。それが済んでしまうと、今まで目を向けないでいた新しい不安に苛まれる。
 この子は生きていて、これからずっと一人の人間として生きていく。それを「育てる」には、特別な才能や、大人の人格が、必要に思われた。少なくとも、喜久子の周りの大人は、みんなそれを備えていた。
 何も出来ないのに、ここまで来てしまったのは、自分だけのような気がした。
 もっと、幸せで、華やかな感慨にひたれると想像していた。
 子供を抱いた時には確かにそれを実感したのだ。今も、傍らに眠るその小さな体を見ると、幸せな気持ちが胸を浸す。それでも、何かが足りないと思うのはなぜだろう。
 その時、襖が静かに開いた。首を起こす気力がない喜久子が少し身じろぎする。
「起きてたのか」
「なんだか頭が冴えてしまって」
 体を起こそうとする喜久子を制して、板垣は膝をついた。そして、赤ん坊を優しく抱き上げる。夫の服装が最後に見たのと違うことに気がついて、喜久子は今日の時間の流れを把握した。
「おかえりなさいませ」
「ああ、ただいま。驚いたよ。朝出かけて、帰ってきたらもう生まれたっていうんだからね」
「まだ、それだけしか経ってないのね……」
 もう数日ぐらい経った気がする。朝、いつものように夫を送り出したはずなのに、今はこうやって蒲団に横になっている。生まれたての赤ん坊までいる。不思議な感覚だった。
「よく頑張ったね」
 そう言って、板垣の手が喜久子の頭を優しく包んでくれた。喜久子は驚いて目を見開き、彼の顔を見ることしか出来なかった。滅多に言われたことのない言葉は、それだけで胸の中をかき回した。手のひらのぬくもりが、喜久子の涙腺を緩ませた。
「こんな時にまで、泣かなくてもいいじゃないか」
「ごめんなさい」
 それでも、涙が溢れて止まらなかった。泣くのを我慢しないで、出してしまうのは心地よい。さっきまでの不安が、流れていく。
 この人がいるから、大丈夫。
 そう思ってしまえば、何の不安もない。
 不器用に子供を抱く彼を見ていたら、あんなに冴えていた頭が溶けていく。
「そうだ、名前どうしようか……喜久子?」
 返事はなかった。蒲団をそっと掛け直してやってから、板垣はもう一度、妻の頭を撫でた。
「……ありがとう」


 それは、ずっと憧れていたものが手に入った時の、高揚感に似ていた。
 今ここにいるのは自分の子供で、そして、まだ名前がない。
 この世に確かにいるのに、まっさらで何も決められていない。
 この子に、「付けて」あげることが出来るのだ。名前を付けた瞬間、この子はその名前になり、名前はその存在とずっと結びつく。
 そんな重要なことを、決められる立場に立つということ。何かを創れる、ということが、嬉しい。
 結局、長男ということもあって、夫が名前を考えることになったのだが、彼の頭からどんな名前が考え出されるのか、それだけでも喜久子は胸が躍った。
 名前を考える、というのは楽しい。昔、少女雑誌に投稿する時のペンネームを考えるのも好きだった。今思えば恥ずかしい名前ばかり考えていたように思う。しかし、その反省も含めて、女児の名前ならいろいろ考えていたのだ。だが、男児の名前となると、その楽しさは半減するように思えた。
 しかし、親子や兄弟で名前が揃っているのを、見るのは楽しい。父親や祖父の持字を用いた名前には、一族のつながりが感じられて憧れる。一郎次郎三郎ではおもしろくないけれど、少し捻られていたら、洒落ているではないか。
 さて、この子はなんという名前になるのだろう。

 先ほどから、板垣は筆を手に机に向かっている。
 喜久子は、丸められ、投げ捨てられていく半紙を拾うたびに広げてみた。
「清」、「茂」、「勇」、「広」、「実」……。
「……」
 喜久子の期待感が、急速に冷めていった。「よくある名前」という印象しか残らない。
「……一文字、なんですね」
「男らしくていいだろう」
 板垣が誇らしげに言うので、喜久子はなにも言い返せなかった。
「音の据わりもいい。書いたときのバランスもいい」
「はあ……」
 言われてみればそうか、とも思う。自分の名前にないものを羨む気持ちから、彼は一文字名に魅力を感じるのだろうか。
「色々考えたんだが、やはりこれかな」
 板垣はそう言って、新しい半紙に筆を滑らせた。夫の傍らに寄って、喜久子はその手元を覗き込む。
 そこには力強く一文字、「裕」の字。
「いい字だと思うんだ。ゆったりとした、良い大人になるように」
 喜久子は、字面と音のことばかり考えて、名前に我が子への願いを込める事をつい失念していたことを、反省した。それに、この文字は気に入った。
「ゆう……ゆたか?」
 読み上げてみて、喜久子はいいかも知れない、と思ったのだが。
「いや、裕(ひろし)だ」
と、即座に訂正されてしまった。一気に一般的な印象になってしまった気がしたが、喜久子は笑顔で承諾する。
 彼がとても満足げなので、喜久子は何も言えなかった。でも、それでいい。
 今でも、喜久子の中には理想や願望がある。しかし、近頃はそれよりも、夫の望みに沿いたい、思うとおりにしてあげたいと、素直にそう思うようになった。
 それは妥協ではなく、喜久子が確信できたからだ。思われていること、気にかけられていること、……愛されていること。そこまで考えて、喜久子は一人頬を赤らめた。これは自惚れだろうか。
 はっきり言葉にして欲しいと、心の底では思っているけれど、察する事が出来ないのは幼い自分の方で、相手のことを分かっていないのも、わがままな自分の方だ。
 そんなこともすべて包んで、認めてくれる。
 だから、彼の前では泣けるのだと思う。
 
 何でもない時にふと、実感する。
 この人と結婚して良かった、と。
 これを幸せというのだろうか。

作品名:この手にぬくもりを 作家名:くりはら