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この手にぬくもりを

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 喜久子はそう思い、少し心拍数が上がった。夫のことを、優しく、頼もしく感じた。
 しかし、喜久子が、詫びと感謝の一言でも言おうとすると、板垣はそれより先に、こともなげに言ったのだった。
「何グズグズしてるんだ」
「……えっ?」
 想像もしていなかった言葉に、唖然とする喜久子をよそに板垣は、
「早く酒だ、酒」
と、将校達を家にあげてしまったのである。
 喜久子が、心の中で憤ったのは、言うまでもなかった。一瞬でも、勘違いをしてときめいた自分が馬鹿らしい。
 喜久子は釈然としないまま台所へ行き、酒の用意をする。板垣は将校達と飲み会を始め、喜久子は燗徳利を持って、台所と客間を何度も往復する羽目になった。
 時刻は、もう深夜二時近かった。
 こんな時間、しかも一度は寝ていたというのに、叩き起こされた相手に酒を振る舞うなんて、どうかしているとしか思えなかった。しかも忙しく支度をするのは喜久子なのだ。板垣はお客と一緒にご機嫌で飲んだくれている。
 酒の肴を用意しながら、喜久子は台所で泣きたくなった。それでも、気の利く妻にはなりたいから、こうやって頑張っている。そんな自分が嫌でないことも、悔しさを増幅させた。自分の行動で何かを壊してしまうのは怖かった。

 翌朝、喜久子が寝不足の頭を必死に起こして朝食の支度をしていると、板垣が何事もなかったように現れた。
 昨夜はさんざん飲んで、挙げ句の果てに客を帰した後に客間で眠り込んでしまい、喜久子が必死に寝床まで引きずっていったのだ。少しは宿酔で苦しんでいるだろう、いい気味だと思っていた喜久子は、平然としている板垣に拍子抜けした。期待を裏切られたような気分だった。
 板垣は、いつものように新聞を片手に朝食を取っていたが、ふと紙面から顔を上げた。
「これからは、うちの将校が来たら、僕がいなくても上げてちゃんともてなしておいてくれ」
「これからって……ああいう方達、またいらっしゃるんですか」
「当たり前だろう」
 人付き合いなんだから、と当然のように答える板垣に、喜久子は口をとがらせる。
「昨日だけでも、家にあったお酒をほとんど出してしまったんです。頻繁にあるようだと困ります」
「なくなったなら買っておけばいいだろう」
 そういう問題ではない。お酒のことは、喜久子が一番言いたいことではなかった。
 どうしてこの人は、気持ちを察するとかくみ取るということを、全くしてくれないのだろうか。喜久子は悲しくなった。そして、一番手っ取り早い本音を、思わずこぼしてしまう。
「……東京に帰りたい」
「何だって?」
 板垣は驚いて顔を上げ、喜久子を見つめた。彼女は自分でも不思議なほど、冷静だった。一度、こらえていたものをはずしてしまえば、本音を言うぐらい、なんて事はない。すべて、小倉に来たからではないか。二人きりでいるからだ。
「なに子供みたいなことを言ってるんだ」
 板垣は嘆息して、新聞をたたむ。
「まだ来たばかりだろう、馬鹿なことを考えてないで、しっかりしてくれよ」
「どうせ子供です、馬鹿です。しっかりやる自信なんてありません。今までみたいに東京にいた方がいいんです」
 視線は下に落としたまま、しかし喜久子は、はっきりと言った。今、一息で言ってしまわないと、結局何も言えずにうやむやになってしまいそうだった。
 それは、本音ではあったが、心の底では少し、本気で説得されて、思いとどまらせて欲しい、という期待もしていた。
 だが、しばらくの沈黙の後、それに耐えかねたように口を開いた板垣は、
「……時間だから、もう出かけるよ」
 と言って立ち上がった。
 どうしてこうなのだろう。喜久子は泣き出したくなってその場にへたりこんだ。
 どうしてもっと優しく慰めるとか、帰るなんて言うな、とか、喜久子が嬉しくなるような言葉をくれないのだろう。夫婦なのに。一緒に生きようと誓った相手なのに。そういった夫婦のあり方を信じていた喜久子には、腑に落ちないことだらけだった。
 喜久子は茫然と、出かけていく板垣の背中を見送った。
 夫が出かけた後、鬱々とした気持ちで朝食の片づけを終えると、喜久子は酒を切らしていたことを思い出し、引き出しから財布を取り出した。財布を開けて、中の紙幣を数える。その時ふと、本当に帰ってしまおうかという考えが、頭に浮かんだ。お金はある。
 それに、板垣も本当は自分を置いてくれば良かったと思っているに違いない。帰れと言うわけにもいかないから、あんな態度をとるのだ。自分がいなくとも、家のことはどうにかすればいい。
 帰ってしまおう。
 そう思うやいなや、喜久子はすぐに行動に移した。この時の彼女は、何かに憑かれたかのように、普段では考えられない行動力を発揮した。
 取る物もとりあえず、必要最低限の物だけ風呂敷に包んだ喜久子が、小倉駅についたのは昼過ぎであった。ここまで来たものの、切符を買う踏ん切りがつかなくて、喜久子は待合所のベンチに腰を下ろした。
 こんな時、理想的な夫なら走って引き留めに来るのだろう。そんなこと思う。汽車に乗り込もうとすると、汽笛にかき消されまいと、必死に名前を呼ぶ声が聞こえる。振り返ると夫がいる。そして、いかないでくれと懇願する彼に向かって、彼女は列車から飛び降りる……。
 そこまで空想して、喜久子は大きくため息をついた。今はもう、それを自分たちに重ね合わせられる気がしない。かつて、友人に笑われたように、理想にすぎないのだろうか、と思ったとき、列車がホームに滑り込んできた。
 喜久子は顔を上げた。駅員が車両の乗降口を開けていく。
 どうせ、私には必死で呼び止めてくれる、素敵な人などいないのだ。
 喜久子は、荷物を持って立ち上がった。

 夕暮れ時が迫り、空が西の方から茜に染まりはじめる。昼間の春らしいぽかぽかとした陽気も薄れ、少し冷え込んできた。喜久子は、地面に斜めに伸びた自分の長い影を、ただぼんやりと見ていた。汽車を待つ人はもう、誰もいない。
 何をやっているんだろう。
 目の前を何本もの汽車が発車していったのに、結局自分はどれにも乗れないまま、かといって駅を後にも出来ないまま、じっとベンチに座っている。次こそは乗るんだ、と今日何度目かの決意をしたとき、ふっと自分の影が消えたのに気づく。近づいてきた他の影と重なったのだ。
 そして、上から声が降ってきた。
「何してるんだ、こんなところで」
 内心では待っていた声に、思わず勢いよく顔を上げてしまった後、喜久子は我に返った。
「何って、言ったでしょう。東京に帰るんです」
「今から?」
 板垣は少し呆れたように言った。それがなんだか気に障って、喜久子はムキになって答える。
「そうです、今更引き留めに来たって、絶対に帰らせてもらいますから」
 荷物を持って立ち上がり、彼の前から離れようとすると、風呂敷包みをひょいと取り上げられてしまった。
 返して、と喜久子が伸ばした手を、板垣がしっかりと掴む。
「……帰るぞ」
 喜久子が手を振り解こうとすると、彼は言った。
「汽車が来るまでここにいるつもりか?」
 当たり前です、と強く言おうとして見上げると、彼が困ったような顔をしていたので、喜久子は少しとまどう。
作品名:この手にぬくもりを 作家名:くりはら