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海と若い女の思い出

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『海と若い女の思い出』

僕は海が好きで、よく近所の近くの丘に登り海を眺めました。今でも、何時間、海を眺めても飽きません。特に夕暮れ時の海が好きです。海が赤く染まり、やがてスミレ色になり、夜が近くなるにつれて空と海の境界線が曖昧になっていく。そんな瞬間がたまらなく好きです。
若い頃は、海を眺めながら、遥かかなたの水平線の先に、見えるはずもない異国のことを想像しました。同時に遠くへ行きたいという願望がかきたてられました。

もう何十年も前の春のある日、ちょうど夕暮れが迫った時のことです。
海が見える丘にいました。すぐ近くで、同じように海を見ている人がいることに気づきました。若い女性です。艶やかな黒髪を風になびかせ、美しい横顔がとても印象的でした。   
淡い桜色で花模様のついた薄いシルクのような布地のワンピースを着ていました。
海から吹き寄せる風のせいで、体の線がはっきりと分かりました。時折、風の悪戯でスカートの裾が舞い上がろうとすると、その人はそっと押さえました。
僕が見ていることに気づくと、その彼女は微笑を浮かべ、「海はいいわね?」と言いました。その微笑みで二人の間にあった敷居が消えました。
海を見ながら、色々のことを話しました。僕は画家志望であることを話しましたが、どちらかというと、多くを話したのは、彼女の方です。きっと、胸のうちあるものを聞いてもらいたかったように多くのことを語りました。音大を出て、声楽の道に進もうとしたが、夢破れ、失意のあまり死にたいとさえ思ったこと。だが、死ぬ勇気もなく、かといって、家にはじっとしておれず、旅に出たこと。
「おかしいわ、どうして、見も知らない人にこんな話をして」と恥じらいました。
人間の出会いというのは不思議なものです。ずっとそばにいても分かり得ないことがよくあります。その逆に出会ったばかりなのに、まるで旧知のような懐かしさを感じることがあります。その時の僕はまさに古い知り合いにあったような気分でした。
 いつしか、月が昇り、あたりを明るく照らしていました。
「昨日も海を見ていましたね」と彼女は言いました。
「ええ、そうです」
「もう、ホテルに帰らなくちゃ、ところで、明日も来る?」
僕はうなずきました。
「私も」と彼女は笑みを浮かべました。

海から吹き寄せる風が少しずつ強くなっていました。彼女はさよならと言って、背を向けようとした瞬間、強い一陣の風が吹き、彼女のスカートを舞い上がらせたのです。僕の目は釘付けになりました。すかさず彼女は裾をおさえ、独り言のように「いやねえ」と呟きました。ほんの一瞬のできごとでしたが、下着まで見えました。
「あなたに会えてうれしいわ、また、明日会おうね」と言って彼女は消えました。
見上げると、美しい満月が出ていました。そして、近くの桜の木から花びらが舞い散っていてとても幻想的な光景でした。実に馬鹿げた話ですが、当時、彼女は桜の精ではないかと思いました。

家に帰ると、すぐにベッドに入りました。が、なかなか眠れませんでした。目を閉じると、彼女の美しい横顔、美しい体の線、そして、色っぽい下着が浮かび、彼女のことをあれこれ考えるうちに、一時間、二時間と時が過ぎていました。が、考え過ぎたせいでしょう。やがて眠りに落ちていきました。

ふと、気づくと、目の前に一人の女性がいました。彼女です。彼女には、僕が目に入らないようです。謎めいた瞳で、呪文のような不思議な言葉を囁いています。その彼女は一糸まとわぬ裸でした。胸は服を着ていたときよりありましいた。僕の視線はだんだんと下にいきました。やがて、気が変になったように、彼女に抱きつきました。すると彼女は「やめて、お願いだから」と叫びました。が、僕は自分をどうすることもできず、彼女を押さえたとき、目が覚めました。
夢だったのです。既に日は高く上っていました。
夢のことをあれこれ考えました。夢の中とはいえ、自分の思いよらぬ、獣のような自分を見たようで、胸を苦しめました。その罪悪感から、とうとう、その日は、海には行きませんでした。彼女のことを忘れようとして、あれこれとしました。が、かえって、彼女への思いが募り、結局、次の日、彼女に会いたいという思いからに海へ行きました。が、彼女はいませんでした。

数日後、一人の若い女性の身投げ死体が浜にあがったということを人伝に聞きました。それが誰なのか知りません。ひょっとしたら、彼女かと思いずいぶん悩みました。
少年の頃の苦い思い出です。あれから夕暮れの海を見ることはめったになくなりました。






作品名:海と若い女の思い出 作家名:楡井英夫