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冬の柿

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『冬の柿』

X県立病院は総合病院の内科病棟では毎週誰かが死ぬ。
五年前から勤務する高山医師が病院の屋上でタバコを吸って寛いでいたら、同じ内科医の野田医師がやって来た。
 高山医師が「年寄りが多いせいか、たくさん死にますね。嫌になるくらい。でも、もう死には慣れました?」と話しかけると、
 野田医師は「死に慣れたかもしれないが、自分の死は想像できないだろ? それが死というものだ。自分の死をイメージできたら、きっと優れた宗教家になれる」と挑発するように言った。
 高山医師は「そんな者になれなくて結構です。遠い親戚に新興宗教にはまって自殺した人がいました。だから宗教は嫌いです。マルクスが言いましたよね。宗教は阿片だと」と応えた。
「マルクスか……彼は阿呆だよ。“人間は賢くはない”ということを知らなかった。人間はあらゆる状況でアヘンを求めている。アヘンを吸って、辛いことから逃れたいのだ。それを理解できなければ、人間を知ることはできない。人間を知らなければ、医者になれない」と野田医師は笑った。
「内科医になったとき、一人でも多くの人を救おうと一生懸命手術をしました。でも、どんなに手術しても、ガン患者は生まれ、ガンで苦しむ人間は一向に減りません。ふと、あるとき、こんなふうに思いました。我々医師がしていることが、はたして何の意味があるのかと。目の前にいるハエをどんなに追い払ったところで、ハエは減らない。死肉がある限り、ハエはどこからもなく集まります。同様に死ぬべき肉体がある限り、ガンは減らない。無論、こんなことは誰にも言ったことはありませんが、我々のやっていることは、実は何の意味のない無駄なことではないかと思いました。反対に無駄な治療を続け、むしろ患者を苦しみの淵に追いやっているのではないかと。この思いはいまだに消し去ることはできないのです」
 野田医師は笑うのは止め、「やれやれ、呆れた奴だ。完全に正しい答えなど、この地上には存在しない。幾分かの不純が混ざっても、それを“良し”としないといけない。手術の結果、苦しむ人もいれば、救われる者もいる。それが現実だ。それが良いか、悪いか単純に判断はできない。ただ手術を望む人をいるのなら、それに答えるのが医師だ。下らぬことを考えないことだ。“医療とは何か”、“生きるとは何か”、“人生とは何か”、“生きるとは何か”、そういった、根源的な問いに対しては誰も簡単に答えられない。もし答えられたら、それは神に等しい存在だ」
「人はどう思うか知りませんが、僕は安易に手術は勧めない。むしろ、苦痛を和らげるために麻薬を打ちながら、残り少ない人生を楽しむことを勧めます」

 柔和で品のよい顔立ちをした森山和子は軽い認知症になり、治療のために月に何度か県立病院に訪れるようになった。彼女には昔、医師になった息子がいたが、若い娘の手術に失敗した。その娘が生きがいだった母親は娘の後を追い自殺した。その事実を知った息子も海に身投げをして自殺した。遺体は浮かばなかった。その事実を知った時、和子は狂ったように泣いた。落ち着きを取り戻した後、周りがどんなに死んだと説得しても、和子は息子が生きていると言い張った。もう五十年近くも前の話だが、認知症にかかった今でも息子が生きていると信じている。

 三ヶ月前、和子は高山医師と出会った。
 息子と同じような背丈。同じ一雄という名、そして同じ東都医科大出身という経歴。和子は高山医師を自分の息子だと勘違いし始めたのだ。
 和子は高山医師を見かけると、まるで愛しい恋人か、それとも命をかけても守りたい幼いわが子を見るような目で、相好崩し「一雄!」と呼ぶ。いつもは感情をあまり見せないのに。 高山医師は何度か人違いだと説明したが無駄だった。

 家政婦に連れられて和子は病院に定期的に訪れるが、その度に高山医師に面会する。
 はじめは“一雄!”と呼ばれても無視していたが、何度も何度も繰り返されるうちに、やがて、自分の母親ではないにしろ、何か赤の他人ではないように思えてきた。

 高山医師が生まれた家も、母親も、この地上に存在しない。
 彼が東都医科大学に在学していたときに、突然、何者かの放火によって家と両親を失ったのである。彼の生きた記録も同時に消えた。母親の写真も残されなかった。心の大切な部分を何か抉り取られたような悲しみだけが残った。その悲しみは数十年の時を経ても消えなかった。生まれ育った地には、放火事件以来、一度も訪れていない。

 昼下がりのことである。和子がどうしても一緒に歩きたいと言ったので、高山医師は一緒が歩いた。病院の近くの柿の民家には柿の木があった。
 裸になった柿木には、まだしぶとく赤い柿が残っていた。
 和子夫人は赤い柿を指で示し、「私もあの柿と一緒です。もうとっくに落ちてもいいのに、まだしぶとくしがみついている」とくすっと笑った。
その顔をみたとき、高山に遠い日の母の記憶がよみがえった。それは火事の日以来、思い出すのが辛くて封印していた記憶である。和子の笑顔がその封印を解いたのである。
「とことんしぶとく生きればいい」と高山は言うと、和子は微笑んだ。

 和子の唯一の楽しみが音楽会だった。
 十一月の終わり、高山医師を誘った。音楽会のある劇場の近くの公園で和子は待つことになった。その日は寒い日だった。夫人は寒いところで何時間も待った。高山医師は来なかった。緊急のオペが入ったためだった。そのせいで寒いところで何時間も待った和子は重い肺炎になった。
 見舞いに訪れた高山医師に家政婦が「ひどいじゃありませんか! 来られないなら、電話くらいくれてもいいのに!」と怒った。
 それを聞いていた和子は家政婦を制した。
「いいのよ。お仕事だから仕方ないじゃなりませんか。それより、私は嬉しい。一分一秒を惜しんで人の命を救おうとしている一雄さんを誇りに思います」

夜、和子が生死をさまよった。
枕元で高山医師は「死なないで……母さん」と呟く。なぜそんなふうに口走ったのか、彼自身も分からなかった。そばにいる看護婦に向かって、「何をぼっと見ているんだ! 早く手術室に運べ!」と怒鳴った。




作品名:冬の柿 作家名:楡井英夫