雪の降る夜に
「そんなこは……」と言おうすると、唇をケンタロウの唇が覆った。川は前より強く抱きしめ、その耳元で囁いた。
「何も言わなくっていいんだ」
ケンタロウは唇を放した。少し間を置いて、ケイコが言った。
「初めてなの」
「分かっていたさ」
ケンタロウは優しくケイコの衣服を剥がした。下着になったケイコが囁くように、
「明かりを消して」
ケンタロウが明かりを消すと、ケイコはベッドに身を横たえた。
ケンタロウの手がブラジャをはずし、その乳房を優しく揉んだ。ケイコの吐息が乱れ始めた。その乳房にケンタロウの唇が触れると、ケイコは深い吐息を洩らすと、上にのるケンタロウの身体を強く抱きしめた。その力の強さにケイコが処女ではないことを知った。ケンタロウの心に安堵感が拡がった。今まで愛してもいない生娘を抱くのは、何かしら後ろめたいものを感じていたからである。が、堰はとかれた。ケイコを強く抱きしめ、荒々しく愛撫を始めた。ケイコはまるで経験豊富な女のようにその愛撫に応えた。
ケイコはケンタロウを受け入れた。ケンタロウが腰を動かすと、その度にケイコは激しく吐息を洩らした。ふたりの興奮がほとんど同時に極まり、やがて収まった。ケンタロウはゆっくりと身を離した。しばらくふたりは死んだように動かなかった。先に身を起こしたのは、ケイコだった。そして、ベッドの側にあるスタンドグラスの明かりをつけた。
「タバコある？」と尋ねた。
「あるよ」
「ちょうだい」
ケンタロウは身を起こして、服にあるタバコをケイコに渡した。
ケイコは下着を着けないで、ベッドに腰を下ろした。タバコに火をつけると、一息深く吸った。
「遊び人かと思ったけど、そうでもないわね」
「そうかい」
服を着始めていた、ケンタロウは何だか気恥ずかしいものを感じた。
「シャワーを浴びるわ」と言って、タバコを揉み消して、裸のままシャワー室に消えた。
浴室から鼻唄が聞こえてきた。ケンタロウはタバコに火をつけ、部屋をみまわした。淡いピンク壁に、一枚の絵が飾ってあった。それが著名な画家のものであることはすぐにわかったが、名前が思い出さなかった。
彼女がバスタオルに身を包んできた。
「あなたはシャワーを浴びないの？」
「ああ」と心ない返事をした。
「そう」と彼女は心に止めることなく、下着を身に纏い始めた。
ケンタロウが彼女を抱こうとすると、彼女はきつい調子で、
「もう終わったのよ」
ケンタロウは姓を聞いたが、答えなかった。電話番号さえ教えてくれなった。
「君は遊びだったのかい？」
「あなたと同じよ」
「僕は本気さ」
ケンタロウは心にもないことを言った。
「嘘でしょう」
「どうして分かる？」
「眼がそう言っているわ」
「君にそれが分かるというのか？」
「ええ」
「嘘がうまいな」
「嘘じゃないわ。あなたはあの絵の作者を知っている？」
「いや」
「大学は出たの？」
「一応、国立大学をね」
少し厭味っぽい言い方だった。彼は一流の大学を出たという自負があった。
「そう、近頃の大学はたいしたことはないのね。あの絵はロセッティの『ビロセルピーナ』
よ。ロセッティの絵には描かれた手とその唇に特徴があるの。眼は精神的なものを表し、口は間隔的なものを表しているの」
「君は大学出かい？」
「違うわ。本当は出たかったけど。父親に反対されて、いけなかったの。でも、行っても行かなくとも同じかったみたい」
もう、ケンタロウは何も言わなかった。彼女が身支度を整えると、
「出ようか」と少し元気のない声で言った。
「その前に、お金を頂戴」
またも子猫のようにかわいらしい声でいった。
彼は驚いた色を隠せなかった。
「楽しい思いをしたんだから当然でしょ」
彼女は五万円を請求した。彼の財布は空になった。給料日にはまだ遠かった。
ホテルを出ると、雪がまた降っていた。
「ここでお別れしましょう」と言って彼女は足早に雪の中に消えた。
しばらくして、ケンタロウはひとり惨めな気持ちを引きずって雪降る中に消えた。