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和貴子の不貞

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「どうしたのよ」と香織が聞いた。
「何が?」
「とぼけてばっかり」
「家庭の中に閉じこもっている、あなたと違って、私はいろんな人を見てきたから分かるの。顔を見ただけで、心の中が分かるの。あなたは恋をしている。それも若い男ね」
和貴子は焦った。
「ほら、ごらんなさい。あなたは嘘がつくのが相変わらず下手。顔にそのとおりですと書いてある。ねえ、どんな男? 若くてハンサムなの? セックスは強いの?」
堰きたてるように聞く。
「馬鹿なことは言わないでよ」
香織は笑った。その笑いに毒がなかったので、怒る気はしなかったけれど、何も言わずにはいられなかった。
「今度、変なことを言ったら、絶交よ。私はそんな女じゃないの。男なんか……」
「男なんか、こりごりとでも言うの?」
香織はじっと覗き込む。
「そんなことはないけど」
そうだ。夢を見たことを思い出した。その夢を追憶した。……男と肌を重ねていた。あられないもない格好で、拒絶しながらも男を迎えている自分がそこにいた。いけないと思いながら、なぜか男にしがみつこうとしていた。男の顔ははっきりしない。どこか見覚えのある顔だ。
「どうしたの?」
和貴子は我に返った。下腹部が妙に熱い。まるで火の粉を宿しているみたいに。
「この頃、思うの。良いセックスをしたいって。誰でも良いというわけではないの。心も身もひとつに溶け合って、これで十分生きたという実感を味わえるようなセックスをしたいの」と香織は呟くように言った。
「もう何年間もそんなセックスはしていない」
「でも、好きな男がいるのでしょ?」
「好きな男?」と香織は聞き返した。
「いないわ。セックスをするだけの男ならいるけど。互いに割り切っている。あしたには分かれられる関係よ。とても愛と呼べないわ」と香織は自嘲気味に笑った。
「鈴木真砂女という詩人を知っている?」
知らないという意味で和貴子は首を振った。
「詩人なの。俳句を読んでいる。彼女の八十五歳のときの俳句にこんなのがあるの。『死のうか と囁かれしは 蛍の夜』というのが。これを呼んだとき、じんときちゃった。こんな恋をしたいって」
和貴子は微笑んだ。
「何かおかしい?」
「おかしくないわ。香織も昔と変わっていないなって」
「どこが?」
「ロマンチストなところが。ずっと前から同じ……」
「人が生きるには、ロマンが必要よ。私は男であれ女であれ、ロマンのない人は嫌い。和貴子だってそうでしょ?」
「ずっと、昔、激しい恋をしたの。今でもそのことが忘れられなくて、男を捜し求めているの」
「季節は春。そこは小さな旅館だったの。周りには何にもないの。桜の名所じゃないけれど、近くに小川があって、桜が岸辺に咲いていた。夜中にふいに目を覚ましたの。暑かったみたい。それで窓を開けたの。とても心地よい空気が雪崩れ込んでいた。もう真夜中で、何もかもが深い眠りの底に落ちていた。何一つ物音がしない。不思議な感じだった。一人何か取り残されたような感じで、生きているのは自分だけのように錯覚した。慌てて、振り返ると彼が寝ていた。まるで死んでいるかのように。窓に寄りかかって眺めた。空を見上げると、ちょうど桜の上に月が出ていた。金色の月だ。風もないのに、花びらがひらひらと散るの。根のあたりには、まるでピンク色の絨毯を敷いたみたいにきれいだった。ずっと見ていたい気分だった。どれだけ時が経ったかしら。ふいに後ろから抱きしめられた。あっと声上げようとした瞬間、すぐに彼だと分かった。そして彼が浴衣の中に手を入れて乳房を掴んで言うの。“柔らかくて気持ちいい”って。それが始まりだった」
香織は激しかった恋の顛末を一部始終語った。もしも、夜で、そして少しワインを飲んでいなかったら、そんな話を聞く耳を和貴子は持たなかったであろう。酔っているというほどではなかったが。香織の話にすっかり聞き入ってしまった自分に気づき恥ずかしいと思った。
その夜、ふいに体の火照りを感じて和貴子は目を覚ました。香織の話のせいだ。夢に見てしまったのだ。和貴子は感化されやすかった。香織の体験がいつの間にか和貴子の夢の中に侵食したのだ。セックスは暗闇でやるものだと思っていた。けれど、香織は薄明かりの中でしたと言った。和貴子はその光景を想像した。ふと自分の乳房に触れてみた。体の火照りを感じた。目を閉じた。いつしか、あの青年の手を想像していた――。

偶然、町で春山賢治に出会った。いや、正確にいえば、春山賢治らしき人物を見かけたと言った方が正しいだろう。その男は若い娘と一緒だった。若い娘は派手な化粧をしていた。彼は気づかなかったようだ。いや気づかないふりをしたのかもしれない。和貴子はプライドを傷つけられたような気分になった。あの女は誰だろう? 恋人だろうか。派手な化粧をしている。水商売の女だろうか。そのことが気になって、頭から離れなくなった。

その夜、携帯に春山賢治から電話がかかってきた。
出ようか、出るのをよそうか。和貴子は迷った。あの若い娘の姿が浮かんできたのだ。何度か鳴った。切れそうになったとき、電話に出た。しまったと思ったときはもう遅かった。
彼はどうでも良いようなことで電話してきた。何かを期待したわけでもないのに、少しがっかりした。
「もうじき春になります。春になったら故郷の山形に行きます」
 山形は和貴子の故郷でもあった。今、かの地に親戚や縁者もいないので、随分と行っていない。彼の話を聞きながら、遠い昔に暮した、かの地のことを思った。
 小さな川が幾つもあった。山があった。春は風に乗ってやってきた。三月も終わりに近づくと、日が差す多くなって日陰にある雪も溶ける。四月になると、枯れ草に覆われた道に“ふきのとう”を見つけることができたようになる。するとところどころに緑の草を目に付くようになる。振り向くと、霞に裾野を隠した山並みも心なしか春の息吹を感じるようになる。四月も半ばを過ぎると、桜がぱっと咲く。その光景を思い出して、
「私も、行ってみたい」と呟いてしまった。
すかさず、彼から、「一緒に行きますか?」
「嫌よ」と答えることが出来ないでいたら、
彼は勝手に了承されたように理解されてしまった。
「来週、ちょうど桜が見頃です」

週末、香織とショッピングをした。
昼食を一緒に取っていると、香織がふとのぞき込むような顔で見ていることに気付いた。和貴子は、いつしか春山賢治と一緒に旅をすることを想像していたので恥ずかしさを覚えた。
「どうしたの? 隠さないでよ。何かいいことがあるんでしょ? だめよ。嘘をつこうとしたって。和貴子は嘘がつくのか下手なんだから」と笑った。
「何も嘘なんかついていない」
「ほら、顔が真っ赤になった」
しまったと思ったときは後の祭り。こうやって、いつも香織は和貴子を確かめるのだ。

その夜、和貴子が寝ようか床に入った。そして、眠りの底に落ちようなとする直前、死期が迫った夫が何気なく言ったことを思い出した。
「お前は素直でいい女だ。その素直な優しさに何度も慰められた。感謝しているよ」
長い沈黙の後、夫が言った。
作品名:和貴子の不貞 作家名:楡井英夫