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天秦甘栗  焼肉定食

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 ニヤニヤと秦海がドアを開けようとしたが、天宮はそのままクラッチを繋いでスタートした。必死になってハンドルを回している天宮を、楽しそうに秦海は眺めている。天宮は「女にはなー」というフレーズが大嫌いである。どんなことでも、自分は努力すれば出来ると思っているので、そういう差別をされると、ムキになってしまうのである。明日は筋肉痛になるかなあー、そうしたら見ものだろうと、秦海は楽しくて仕方がない。こういう天宮が、かわいいのである。どうにかこうにかハンドルをさばけるようになった頃、秦海の携帯に連絡が入った。相手は秦海の秘書の川尻であった。
「社長、美女とデート中とは存じておりますが、明日の朝一番のスケジュールが変更になりましたので連絡を差し上げております」
「美女か? 今日は妻とデートなんだが」
「おお、うわさの奥方様ですな。それはまあ、お熱いことで」
 ヘヘヘ…と電話の相手は人の悪い笑い声を上げている。となりで天宮は、「美女か?」って、私は美女じゃないわけだよね。とハンドルを急に切って車をスピンさせて停止させた。
「今頃、誰?」
「ああ、秘書からだ。明日のスケジュール変更の連絡だ」
 時刻は9時をまわった頃である。川尻は手短に明日の予定を告げて時刻の変更を注意した。それなら、こちらは関係ないと、再度、クルマはスタートさせる。

「社長、間違わないで下さいよ、明日は早目に出社して下さい。先方さんをお待たせするわけには参りませんからね」
 と、仕事の話を終えてから川尻は、「ところで」と話題を変えた。
「ところで社長、奥方が隣におられるんでしょう? 挨拶させて下さいよ」
「ああ、かまわないがー」
 秦海は、横で運転している天宮に携帯を手渡した。
「うちの秘書が、挨拶したいそうだ」
「まだ働いてるの? 社長はもう帰ったっていうのにー」
 携帯を持って一番に天宮はそう口にした。ご挨拶なんぞあったものではない。それでも川尻は律義に、「はじめまして、私くしご主人の秘書をさせて頂いております川尻四郎と申します。以後お見知りおき下さい、奥様」と挨拶した。
「奥様はやめてくれる? 川尻さん」
「でも、あなたは法律上はそうでございましょ?」
 恭しい口調で川尻が言う。こいつはいい度胸だと天宮が笑う。
「いやなものはいやなの。それより、まだ仕事してるの?」
「いえ、もう帰宅途中です。今、高速を降りましたからね。奥様は今どこをドライブされてるんですか?」
「天宮って呼んでねー、今は、うちから出てまっすぐ国道を南へ走ってるの」
 そう言いながら、川尻が前方を向いた。実は社長に連絡がつかなかった場合を考えて、秦海家に立ち寄ろうと思っていたところだったのだ。恐らく、天宮は前方からやって来るだろう。
「お車は、パジェロですか?」
 川尻は、自分の車を路肩に寄せて停車した。閑静な住宅地の側の国道は、9時を回ると、通る車の量も少なく静かである。
「車はねえー、パジェロじゃなくてフェラーリ。ねえ秦海、これってF40よね?」
「ああそうだ」
 となりに確認してから、天宮が川尻に車名を伝えた。わりと平坦な道で、ギアチェンジしなくていいので、天宮も気楽にアクセルを踏んでいる。
「分かりましたよ、今通り過ぎました。後ろに私がつきます」
 川尻は、クルリと向きを変えてF40の後ろについた。
「あんまりのんびり走ってると、抜いて帰りますよ。奥様」
 クククッと笑いながら、F40に煽りをかけてフェイントをして川尻は前に出た。しつこく「奥様」と呼ぶ相手に、天宮は腹を立ててアクセルを力一杯に踏んだ。F40のエンジンが、大きな音をたてて川尻の車に近付いて行くが、いかんせん重いハンドルでステアリングが自由にならない。
「秦海!! 手伝って!! ハンドルを右に回してっっ!!」
「やめろ! 天宮」
 と、言っても聞く相手じゃないので、助手席からハンドルを右に回してやる。スイッとF40が横に並んで、川尻の車に並んだ。天宮はそこでシフトチェンジでスピードをあげて川尻の前に入ろうとする。
「秦海!! 左に切って!! 早く!早く」
 また秦海が左にハンドルを回す。そこでやっとF40は、川尻の車の前に入った。やれやれと川尻も無茶すると秦海が笑っていると、軽く天宮は制動をかけた。
「こわしたら、ごめんね」
 そう言いながら、天宮はブレーキとアクセルの両方を踏んだ。ものすごいタイヤのすり減る音が聞こえて、背後では急ブレーキの音がした。天宮は、不届きな川尻に制裁を加えてやろうと、パニックブレーキを仕掛けたのである。しかし、本当に急ブレーキをかけて川尻がケガをするとまずいので、ブレーキランプをつけてアクセルでスピードを保持したのである。が、川尻は予想していたのか、パニックブレーキを急ブレーキをかけて避けると、そのままF40を抜いてしまった。
「情けをかけましたね、奥様」
 前に出た川尻は、携帯に話しかけた。本当に急ブレーキをかけられたらやばいだろうが、天宮が少しやさしくかけてくれたので、驚きつつも横に出て抜いてしまったので、結構やさしい人だなあと川尻は微笑んだ。
「“奥様”はやめてって言ってんのにー、こりないね、川尻さん」
「いやいや、おほめいただいて、ハハハ…」
 天宮も抜くのはやめて、また携帯でお話しを始めた。そこで天王寺レースをやることを思い出して川尻も誘ってみたが、相手は「とんでもない」と笑いながら断った。
「慣れない車で、ここまでやられる奥様相手に、私くしごときがかなうはずがありませんよ。でも今度ゆっくり、お顔を拝見させて頂いてお話ししたいですね」
「今でもいいよ」
「いえいえ、せっかくご夫婦水いらずのところに水をさすのは申し訳がない。また今度にしましょう。そろそろ私くしは、これで失礼します。そろそろ高速の入り口ですから」
「じゃ、天宮家までいらっしゃい!」
 そこで天宮は携帯を秦海に返してしまった。秦海が、「わざわざご苦労だったな、川尻」 と、話しかけると、相手は笑って、明日にでも天宮家の住所を教えて下さいと言った。そして最後に「やさしい方ですね。やはり、社長はいい方をおもらいになりましたよ。ハハハ…」 と、大笑いしてケイタイを切ってしまった。今のバトルで、そういうことを言える川尻は、ある意味でとても大物だなあと秦海も笑って携帯を置いた。
「『やさしい方ですね』 と、川尻が言ってたぞ」
 秦海がそう言って去り行く川尻の車に目をやった。やさしい天宮は「当たり前じゃない」と答えて、「でも川尻さんて、おもしろい人ね」と続けた。
 そういうことを言えるおまえらって、やっぱり同類だな。と秦海はおかしくて、クスクスと笑ってしまった。


 秦海が予想していた通り、次の日、天宮は腕が筋肉痛でピーピーと泣いていた。
「サロンパス貼るか? 天宮」
 朝食のおりに秦海が、イタタタ…と言いながら箸を持っている天宮に同情して声をかけたが、そのうち治るからいいやと相手はあきらめて、御飯を食べている。
「それに、サロンパスって匂いするから眠くなるしね」
「はあ?」
「あれって、鎮静効果があるでしょ? あの匂いって気持ちよくってダメなんだなあー」
作品名:天秦甘栗  焼肉定食 作家名:篠義