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ライドガール

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「わたしがそんなんじゃ、バルムが気持ちよく走れるわけがないよね。今日は本当にごめん、バルム。もうこんな思いはさせないから。約束する。もう怖がらない。だから許して、またわたしと一緒にがんばって、バルム」
 馬房の中の気配が動き、柵に置いた手に息がかかった。
「バルム……」
 突き出されたバルメルトウの顔に、リウは頬をつけた。
「ありがとう」
 漆黒の馬体の体温が冷え切った体に染みわたっていった。

     †

 ルォーグの〈天馬競〉の五日後、リウはノア牧へバルメルトウを連れ出した。
「バルム、練習してみよう」
 軍馬用の調教もするノア牧には、自然な丘を利用して作った坂路がある。馬を駆け上がらせて筋力や心肺能力を鍛えるその路を、リウは駆け下るつもりだった。
 あれから十分に乗って、もう一度バルメルトウと心を合わせた。バルメルトウはいつでも勝つために走る。だから、リウも自分の中の恐怖心に打ち勝って、バルメルトウを安全に気持ちよく走らせることに専念しなければならない。それが乗手の役目なのだから。
 だが、リウの頼みを聞いたシャルスは眉間を曇らせた。
「お願い、シャルス。わたし、同じ失敗は繰り返したくないんだ。もしそんなことになったら、今度こそバルムはわたしを背中に乗せてくれなくなるもの」
「だけどリウ、あれはそんなふうに使う路じゃないんだよ」
「わかってる」
「もし競路であれくらいの傾斜があれば、誰だって鞍に腰をおろして馬を慎重に歩かせる。それくらいの坂なんだ。それを駆け下ろうだなんて、危険すぎる」
「だからいいの。あそこを下りられたら、あれ以上の坂なんてないもの」
 シャルスは、今度ははっきりと眉をひそめて、リウを見つめた。
「決して貸したくはないけれど、ここで断わったら、きみはナユス峡谷の崖でも下りかねないな。わかった、使うといい。ただし僕も近くで見せてもらうよ」
「ありがとう、シャルス! 見物ならお好きにどうぞ」
 リウは鍔広帽に髪をたくしこみ、再びバルメルトウにまたがった。
 ノア牧もランダルム牧に比べればはるかに広い。柵など見えない緑の丘陵の一部に赤の長絨毯を広げたようにして、坂路はあった。近づいてみると、赤く見えたのはたっぷりと赤砂をまぜた柔らかな土だった。それが広やかな丘の上まで敷き詰められている。
「距離も質も、イシャーマ牧のものとは比べものにならないけどね」
 シャルスは自嘲気味に言ったが、リウは聞こえなかったふりをした。
「じゃあシャルス、ちょっと借りるね!」
 リウはバルメルトウを丘の上へ進めた。馬を歩かせる分には、平地とは気分が変わって面白いとしか思えない程度の坂だった。大丈夫、とリウは頂上で手綱をひき、バルメルトウを振り向かせた。
 その途端、坂は表情を一変させた。
 赤い路はまっすぐに、そして長々と丘を下りている。坂の終わりのあたりで馬にまたがってこちらを見上げているシャルスが、棒人形のようにしか見えない。目鼻立ちなどまるで見えず、頭、胴、腕、脚といった体の作りがなんとかわかる程度だ。リウが頂上に着いたと見て取って、片腕が頭の上に持ち上がって振られた。
 自分も手を振り返しながら、リウはぞっとした。
 距離自体は走る馬に乗っているならたいしたことはない。すぐにでも駆け抜けられる距離だ。だが、ほとんど自分の足の下にいるように見えるシャルスの位置が、リウをおびえさせる。ここからさらに鐙の上に立ち上がってしまえば、その瞬間にバルメルトウの背から放り出されて頭からこの坂の底へと転がり落ちていきそうな、そんな恐怖にとらわれる。
「――だめだめ!」
 リウはぶるっと頭を振り、頬をぴしゃりと叩いた。続いてバルメルトウの首を叩く。
「さ、行こう、バルム!」
 腹を軽く蹴ったリウの足に、即座にバルメルトウは走り出した。
 風が空気の固まりとなって顔にぶつかってくる。いつもよりもさらに鞍の前部分に体が押しつけられて、はっきり自分が坂を下っていることがわかる。懸命に顔をあげようとするが、それでも視界のほとんどは赤い斜面が占めている。
 もっと胸を張らないと――リウはその先の緑の丘を、その上の青い空を見ようとする。坂を駆け下っているのはリウではない、バルメルトウだ。前屈みの下手な体勢をとってその脚、ことに負担のかかる前脚にこれ以上の体重をかけるわけにはいかない。
 だというのに、恐怖が自然と体をひきつらせる。腕が縮む。背が丸まる。
 リウは歯を食いしばり、馬体の下を流れていく赤い地面から無理やり顔をあげた。
 その瞬間だった。
 窪みでもあったのか、バルメルトウの右の前脚ががくりと大きく沈み込んだ。
 右側の鐙に乗せたリウの足が、不意に支えを失った。
 一瞬、リウを地面に縛りつける体重が消えた。リウは視界のすべてを埋めた真っ青な空を無邪気に見つめた。はるか高所を飛んでいて、まるで体の下に空があるような気がした。
 だがその直後、まるで思い上がった罪への罰のように、リウの全身はしたたかに地面に叩きつけられた。
「――っ!」
 強打した体から息が追い出され、声にならない音が口から漏れる。
 一瞬の影のようにして、視界の隅をバルメルトウの黒い馬体が通り過ぎた。
 青い空がまた、しかし今度はリウの彼方上にと広がっている。全身が痛い。息が苦しい。リウはあえごうとしたが、呼吸の仕方を忘れてしまっている。空気が入ってこない。喉がつまる。胸がつぶされる。
「リウっ!!」
 シャルスの声とともに影が覆い被さり、リウは無理やり地面から引きはがされた。ぐいと背中を押された拍子に、空気が喉から胸へと落ちた。
 その途端に全身を貫いた激痛に、リウは言葉にならない悲鳴をあげる。体はどうなってしまったのか。にじんだ涙でゆらゆらと目の前が揺れて、吐き気がこみあげる。
 それでも、そんな体よりも気がかりなものがある。リウは気力を振りしぼって聞いた。
「ば……バルム……は……?」
「大丈夫、バルメルトウはつまづいただけだ。脚はどうもなってない。それよりきみだ」
「だ……め……バルム……さ……き……」
 リウは必死に言葉をつなぐ。
 もう状況はわかっている。つまづいたバルメルトウから放り出されて空中で半回転し、背中から地面に落ちたのだ。体のどこが痛んでいるかもわからない広すぎる激痛と、すべての熱が奪われてしまったような悪寒に耐えつつ、リウは自分の体を確かめていく。
 右腕、左腕、右脚、左脚、頭。
 すべてある。すべて動く。
 けれどもバルメルトウがどうなのだろう。不意に乗手を失って、どこまで走っていってしまっただろう。見たい。触れたい。無事を確かめたい。リウは一心に願う。
「バル……ム……」
 リウは必死にシャルスを押しやった。
「――わかった」
 シャルスが離れた。リウはもう一度四肢に意識をやり、力をこめて伸ばした。
「ぐっ……」
 体を起こすだけでうめき声がもれた。
 ひどく遠く感じる坂の下に、ぽつんと立つ小さな影。
 それが自分の愛馬だと気づくのに、リウはしばらくの時間を必要とした。
「……バルム」
作品名:ライドガール 作家名:ひがら