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檸檬

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家を出てすぐ前の通りに、「反吐川」と呼ばれている川がある。
反吐川は俺が五歳の時ここへ引っ越して来た当時からそこにあって、正式名称はいまだに知らない。
平戸川という名前の何世代か前の先輩が、そこで鮭の養殖を行なおうとして失敗し、それに因んで「反吐川」なる呼び名がついた、という話は聞いたことがある。が、あくまでもそれは噂である。混濁した汚水とこびりついた藻で川底が見えないその川は黄土色をして、実際見る者が反吐を吐きかけたくなるような代物ではある。
悪臭もひどく、鼻が爛れるようで、普段「反吐川」に自分から好き好んで近付こうする者は滅多にいないが、俺は以前、昼の十二時から二時くらいにかけてずっと反吐川を見つめていたことがある。
確か近所の友達に待ち惚けをくらわされた時だったと思うが、俺はなにをするでもなくじっと土色の川面を見ていた。濁った水面は微かに、動いていた。その流れから俺はふと、濁流という言葉を連想した。そして気付いた。俺はこの濁水がどこから来てどこへ行くのか、知らない。
そして今、机の上には人の手垢で薄汚れた藁半紙が一枚。濁流と同じで、俺はこういった紙切れが一体どこから来て最終的に誰の手に渡るのかを知らない。紙はどこで入手したのかクラスの女子全員の名簿がプリントされており、一番上に汚い字で「やりたい女ランキング」というタイトルらしきものが書かれていた。各名前の脇にはちらほらと鉛筆で書き足された「正」の文字。ざっと見渡す。一番人気は最近髪をロングからショートボブにばっさり切った坂井穂都美だった。正の字が二個。ぶっちぎりである。俺は右斜め前方にいる坂井の後姿にちらっと目をやって、三番人気の村上麻貴子の横に大穴狙いで線をつぎ足した。俺は自分以外の男連中がこういうものを記入閲覧している分には、中学生の頭の中身なんてぞんざいだよなあ、などとそれなりに俯瞰したりもするのだが、いざ自分が談議に加えられれば話は別になる。しかし、最後にこの紙切れが回ってきた奴は一体これをどうするのだろうか、とは思う。まさか丁寧にファイリングして、青春の一ページとして大事に保管でもするのだろうか。名簿をよく見ると、三、四人名前の上から赤い線が引かれている女子がいて、笑えた。
中学三年の男子児童なんて、存在がぞんざいである。俺もそのうちの一人だ。
俺は隣の、暇そうに椅子にもたれかかっている轍男(てつお)に紙をまわした。轍は俺を一瞥し、無言で紙を受け取った。
俺のクラスは男女隣り合わせで一と数え、計三つ机の列ができることになっているが、男子の数が女子より一人多いため、半端になった者は男同士で座らなければならない。
俺と、俺の隣にいる相葉轍男は中一の時名簿順で連番になって以来、家も近所で、なんと誕生日も一日違い、という偶然に身をまかせて腐れ縁だ。中三の春から何度か席替えをしたが、俺と轍はずっと二列目の最後尾を陣取っている。轍が席替えのたびに面倒くさがって、てこでも動こうとしないので、今じゃ担任もクラスの面々も俺と轍の特等席を黙認している。しかも轍は前の席から机一個か二個ぶんくらいあけて、教室の壁面であるロッカーまで机を下げてのうのうと授業を聞いている。自分だけ前に残るのも不自然なので、しかたなく俺もその位置に机をやっているのだが、ハタから見れば俺と轍はちょっとしたアウトサイダー気取り、もしくはクラスのはみだしっ子二人組である。実際そんな事実は全くないのだが、私語がばれにくい、掃除の時わざわざ机を運ばなくてもいい、等の利点はある。轍は担任に何度注意されても「ここが一番落ち着くんです」「ここが俺の居場所なんです」とおどけた口調で言ってのけ、やはり今となっては誰一人として気にもとめない現状だ。
俺はさりげなく轍の手元を眇めた。轍がどの女子に一票を投じるのか、単純に興味があった。轍は紙を見るともなしに、コツコツとシャーペンで机の隅をつついている。
「なあ」
突然、轍が口を開いた。
「ふつうさ、パンストの上から靴下はくかなあ」
「は?」
「岡部だよ」
轍は顎をしゃくった。岡部は今年の春から赴任してきた国語教師で、あまり知られていないがうちのクラスの副担任でもある。今、教壇で活用形を板書している岡部の足元をよく注視すると、襞の入った白いスカート、その下は少し濃い目のパンストで、確かにその上に薄茶の脹ら脛丈ソックスをはいていた。ああ、と俺は適当に相槌をうった。
「変じゃねえ?」
「そう言われてみれば、変かもな」
岡部は振り返り、黒板の五段活用を読み上げた。轍はそんな岡部を見つめている。
「くせえ」
「あ?」
「処女臭」
轍はそう言って、気懈そうにつっ伏した。俺は、そのまま動く気がなさそうな轍のかわりに名簿をまわそうと、轍の腕下にはさまっている藁半紙を抜き取った。
見てみると、名簿下の欄外に「岡部紀子」――シャーペンで岡部の本名と、その脇に一本、線が引いてあった。

姉から拝借したマグカップには、カラフルな象のイラストが描かれていた。象の体は市松模様の多色版という感じで、上下左右異なる色の正方形が敷きつめられている。カップの下部に「ELMER THEPATCHWARK ELEPHANT」というロゴが記してあった。ロゴを直訳すると、「つぎはぎの象」。象の名はエルマーというらしい。ご丁寧にカップの柄にも同じロゴが書いてある。そんなにも、ビビッドカラーによるモザイクで埋め尽くされた欠損症の象、を象徴したいのだろうか。当の象は欠損症呼ばわりされているにもかかわらず、水平に伸ばした鼻先に果実を乗っけたりして、いたって陽気だが。象だけに、そんな象徴。
くだらない思考を巡らせつつ、俺は正面で喋っている轍の話を黙って聞いていた。
「一朗、聞いてる?」
あわてて、思考を象から切り離す。
「ああ」
轍はトレイの上のシンプルなほうの白いカップを手に取り、中身のコーヒーを啜った。
「メンバー。橋本と島田でいいだろ?」
「うん」
「そのうち、俺から適当に話しとくからさ」
轍はそう言うと立ち上がり、部屋の片隅にある本棚を眺めた。
「しっかしお前の部屋ってさー、中一ん時から常に変わらないよな」
轍は本棚を物色しながら、俺の持っている漫画がスラムダンクとろくでなしBLUESしかないことに対してぶつぶつと文句を言った。
俺は折りたたみ式テーブルの上に置かれた、轍が書いた落書き混じりの学校内見取り図を眺めた。
「うわ、本棚に小学ん時の国語の教科書とか並べるなよ、お前。ていうか捨てずにとっとくってのがもはや恥ずかしい」
「なあ、轍」
「はあ?」
轍は俺の小六時分の国語の教科書をぱらぱらめくりながら、素っ頓狂な返事をして振り向いた。俺は見取り図を指差して言った。
「初歩的な質問なんだけどさ。これ。なんで岡部なの?って、聞いてもいい?」
轍は少し沈黙したのち、言った。
「アイバクって知ってるか」
「は?」
「アイバク。クトゥブッディーン・アイバク」
「なにそれ。呪文?」
「広辞苑第四版。お前、持ってる?」
「持ってねえ」
轍はすうっと鼻を鳴らし、目線を俺から教科書に移して話し始めた。
「俺体育祭実行委員だったじゃん」
「うん」
作品名:檸檬 作家名:はこ