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助平心とファミリーレストラン

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「で?」
 瞳子は一言、低く言った。
「…………で、と申しますと……?」
 僕と瞳子の間にはテーブルがあり、テーブルの上にはドリンクバーのグラスとカップがひとつずつ。そして僕のケータイ電話がぽつんとあった。
「どう落とし前つけるんだって訊いてんのよ」
 僕たちのテーブルには沈鬱な静寂と、触ればパチンと感電してしまいそうな怒りとが満ちていて、その空気は夜のファミレスには似つかわしくないものだった。遅い夕食をとるサラリーマン、勉学に励む学生、未成年者と思われる子供で、店内はそこそこ姦しい。こんなに重苦しい沈黙があるのは、このテーブルだけだろう。
 僕は後悔していた。頭の中にはずっと言い訳じみた言葉がぐるぐる廻っていて、けれどそんなことを口にしようものなら、キれた瞳子がグラスかカップかあるいは僕の携帯を用いて僕の頭を割りにくる確信があったので、沈黙を通した。ベストではないがベターな選択だ。こういうときは、嵐が去るのを待つように、じっと耐え忍ぶしかないのだ。
「なに黙ってんのよ」
 瞳子は声を荒げない。ただただ低く、低く、唸る。獲物を目前にした肉食獣の、喉の音によく似ている。ぐる、ぐるる、と今にも噛みつき引き裂かんと企む音だ。さながら僕は生命の危機にある草食動物か、小動物というところだろう。
「…………瞳子さんのことが一番好きです……」
「ンなこたぁ訊いてないのよ」
「…………浮気はしてないです」
「動かぬ証拠を前にしらばっくれるつもり?」
 瞳子が僕のケータイを握りしめる。握りしめる、というか彼女はケータイを粉砕するつもりだ。リンゴを握りつぶす女はいてもケータイを握り潰す女はいないと思っていた。いま、この瞬間までは。
「この前の休み、裕子ちゃんと遊んだんだ? 楽しかったんだ? また遊ぶんだ?」
「いや……ぶっちゃけそんな楽しくなかったっていうか……また遊ぶっていうのは社交辞令っていうか……なんていうか……」
「へえ」
 みしみしとケータイが軋む音が聞こえた(ような気がした)。
「私はね」
「……はい」
「浮気はしてもいいと思ってる」
「えっ」
 嘘だ! そんな女この世に存在しない!
「でも言い訳する男は許せねーんだよっ!」
 すかーん。
 例えるなら、すかーん、だった。
 僕の携帯が僕の額にクリーンヒットした。素晴らしいコントロールだった。どうやったらこんなにも見事に額の中心に携帯をぶつけることができるのか。高校球児にでも教えてやれば感謝されるのではないだろうか。それほどまでに見事な投球――、いや、投ケータイだったのだ。
 涙を流しながら悶絶する。声を上げなかったのは称賛に値するだろう。僕たちのテーブルの沈黙が、周囲のテーブルに感染した。パンデミックする前になんとかしたい。しかしどうしたら防げるのか僕にはわからない。
「瞳子、愛してる。まじで」
「私は今あんたを殺したいと思ってる。まじで」
 瞳子が冷ややかな目で僕を見て、立ち上がった。
 メーデーメーデー! 緊急事態発生! ちなみにここでいうメーデーは労働者とは関係ないという逃避はどうでもいい!
 ああ、あんなすけべぇ心出さなければよかった! 裕子ちゃんが優しいからってふらっとしなければよかった! 後悔したって遅い僕の馬鹿!
 僕は立ち上がった。
 床に落ちていたケータイを拾った。
 ケータイを開いた。
 ケータイを折った。
 スムーズに折れない方向に。
「瞳子、愛してる!」
 メーデーメーデー! パンデミックが起こった! 総員非難せよ! 視線が痛い! でも構ってられるかそんなもん! 瞳子の視線が一番痛い!
 瞳子が僕の手からケータイを奪った。
 SDを抜いた。
 床に落とした。
 ヒールの踵がSDを踏んだ。
「次、言い訳したら殺す」
 瞳子はかつかつとヒールを鳴らしながら、ファミレスから出て行った。無銭飲食をするわけにはいかなかったので、僕は伝票を持ってレジに向かった。遅い夕食をとるサラリーマンも、勉学に励む学生も、未成年と思われる子供も、店員さんもひっそりとした目で僕を見ていた。店内を見回したわけではないがわかる。被害妄想ではない。絶対見ている。
 僕は顔を上げた。見るなら見ろ。
 これが男の生き様だ!