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神の御加護

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さて、いささか困ったことになった。
私は、単位のかかったこの大事な試験に、全くの無勉で臨むことになってしまったのである。なんたる悲劇であろうか。剣を持たぬ勇者が、猛々しい竜を倒すことができぬことは、私、百も承知だ。
 それでありながら、剣どころか木の棒さえも持たずに戦おうとする私は、違った意味で勇者なのであろうか。そんなことを考えて、私の口角は急にあがった。いやはや、追い込まれた人間は、実にくだらないことを考えるものである。一人涼しげに笑みを浮かべてしまった。
 さて、あと十分ほどで教場試験が始まるわけだが、生憎教科書すら持ち合わせていない。畜生。
勿論、今現在このような状況にあることには、理由があるし、私に非があることは、まさに青天の霹靂の如くである。ただ、この場でそれを悔いることに、一切の利点を見つけることはできぬ。そこで、どうしたものかと頭を捻った。
 窮地に立たされた人間がすべきこと。それは先ず、なによりも先立って、現状把握である。そうして私は辺りを入念に観察した。
 この中教室には多数の生徒がおり、少数の監督員が居る。百人弱の学生に対し、十人ほどが見張りとして、目を光らせているわけである。学生は必死に教科書をめくり、頭に知識を叩き込んでいる真っ最中である。そこに知的好奇心など一切存在せず、ただ、単位という、学生には悪魔と呼べる代物を取得したいがための、虚しく儚い作業に過ぎないのだ。と、余計な考察を含んだのち、自身の立場を究明した。
 私は、この「文化人類学」に関する知識は、ほぼ無に等しい。授業など一回も出ておらず、教授の顔も全くの初見であるのだから、仕方がない。お手上げ状態である。
 この現状を十二分に把握した私は、一つの解決策に達することになる。

 カンニングである。

 それが、人道に反する、最も卑劣な行為の一つであることは、重々承知ではある。が、私にとって今一番大事なものは、悪魔、もとい単位である。それはどうにもできぬ事実であり、今の私には、唯一の真理なのだ。
 今一番大事なものを取得できるのなら、人の道を失うことなど、実に容易い行為である。
 そこまで考えをまとめたあとで、私は席を移動することにした。というのも、どうにも隣の男が頼りないのである。早急にもう少し頭の回る人間を探さねば。
 しかし、そう思ったものの、私自身がそれを望んでいないにも関わらず、私は何故か彼から視線を外すことができなかった。別に彼がなにをしてきたというわけではない。むしろ、彼は一心不乱に自分の作業に取り組んでいたのである。ただ、その作業が、私にとってあまりに不自然であったのだ。
 皆が教科書をめくる中、この男は、ずっと本を読んでいるだけなのである。そして、横にはきちんと教科書が並べられているのである。その本は、なにやら相当読み込まれた様子で、表紙は黄ばみ、所々破れている次第だ。ふとのぞくと、果たしてそれは、ツルゲーネフのはつ恋であった。私は瞬時に身勝手な憤りを感ぜずにはいられなかった。
 「馬鹿め!試験直前に勉学に励みもせず、淡く不気味な文学に浸るなど、愚の骨頂だ!こんな男の隣にいては、私の計画も水の泡だ!この畜生めが!」
 と、私は彼に怒号した。勿論声は出さず、心のうちでの出来事である。
 そうしてようやく、より優秀な学生を探す行為に専念した。前をみて、後ろをみて、横を入念に見回した。あいつはなかなかやりそうだ。とか、あいつは年中女のことを考えているに違いない。とか、勝手気ままに値踏みした。しかし、そこで、私はハッと我に返ったように悟った。
 自分は不自然に辺りを見回し、しかもそれが不道徳のために生じた行動でありながら、かたやじいっと活字から目線を離さず、読書に勤しむこの文学青年を、心のうちで痛烈に批判しているのである。これは、私の器の小ささ故に起きた、ひどく悲しい現実である。それに、この青年もよく見れば、賢そうな顔立ちである。ふむ。となると、試験前に文学に没頭する理由も容易に推測できる。きっとこの青年は、試験勉強なぞとうの昔に終わらせてしまって、こんな試験直前の時間に新たに得る知識なんて存在しないがために、仕方なしに百回目くらいのはつ恋を読んで、暇をつぶしているのである。そうだ。そうに違いない!
 そうなれば、今私にできることは、青年に不審な行動を見せず、無警戒の状態に保存することのみである。そうして試験が始まったら、この男の解答をそっくりそのまま頂戴してしまえば、万事うまくいくだろう。誰かに損がでるわけでもあるまい。
 そう考えがまとまったあとに、私は先程までの自分を恥じた。
 「嗚呼、私はなんて愚劣で卑小な人間なのだ!私は自分の益を欲するがあまり、このひどく誠実な青年の人格を、猛烈な悪意をもって攻撃してしまった!嗚呼、自分はなんと阿呆なのだろう!!」
 自責の念に刈られながら、隣の青年に畏敬の念をもって鐘の鳴るのを待った。ちらと時計を見ると、あと数十秒で、解答用紙が配布される。そうなれば、あとはもうこの隣に座った私のメシア、いや、イエス・キリストに命運を委ねるのみである。
 「嗚呼、神よ!どうか私とこの誠実な青年に、幸福をもたらしたまえ!」
青年のことをキリストと呼んでおきながらも、私は神に祈った。神とは不幸の時にのみ祈られる。なんて可哀相な存在だろうか。神にだけはなりたくないな、と、そこでふと思った。そもそも神とは、人の心のうちにのみ存在していて、しかも、神の容姿は、個々人の解釈に委ねられていて、空のようでもあり、人のようでもある。心の支えを欲する人々、いわゆる信者によって、神は神であると定義されているだけであって、神に救いを求めても慈悲を受けることは少ない。何故なら、運命という奴は、人の世で権力をもつ人間に味方するようにできているからである。こんな考えをもっておきながら、私という卑屈な人間は、祈ることをやめることができない。祈りには、なにか特別な力があるであろうことを、誰しもが信じてやまないのである。私のような、これから不道徳を実践しようとする人間さえ、そうせざるを得ないのだから、祈りとは人類で最も大切な行為なのではないだろうか。
 こんなくだらないことに思いを巡らしていると、不意に鐘の音が耳に入った。
 「それでは解答用紙を配布します。後ろに回してください。」
 教授らしき人物が、声を大にして連絡する。
 キリストの様子をみると、最早聖書のようにすら見えるはつ恋に栞をはさみ、落ち着いた様子で荷物をまとめている。私も、とりあえず机にだしておいたペットボトルを、鞄にしまった。
 回ってきた解答用紙を一枚とり、後ろに回した。幸運なことに、私の座る教室の中央付近には、監督員は一人も居なかった。こうゆうことがあるから、人は祈らずにはおれんのだ。
 どうやら後ろまで紙切れが回った様子で、とうとう教授らしき男は合図をだした。
 「それでは試験を始めてください。」
作品名:神の御加護 作家名:光山茂