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理不尽

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 私には、妻が汚物に見えることがある。

「綾子さん」

 私は床の中で、妻の声を聞いた。
 日は昇っている。退職してから、私は床から早く起き上がるのが苦手になった。
 仕事をしなくてもいい自由な日々。特に仕事で多忙だった十年ほど前は、それを心待ちにして、それを心の拠り所に如何なる理不尽な出来事にも耐えてきた。
 だが、いざ迎えてみれば多分に堕落的で、年を取るごとに眠りは浅くなり目覚めやすくなっても、体を起こすと言う行為が億劫になり、昼までただぼんやりしている、そんな空虚な日々でしかなかった。
 妻は違う。十年前も、今も、彼女の仕事は変わらない。習慣も然り。
 ただ変わったことは幾らでもあった。

「気が利かないこと。それぐらいは、ねぇ」

 妻の声はよく通る。
 美しい女性だった。かつては女優を志したこともあった。だが、実家の経済苦で堅実に働かざるを得なくなり、夢を諦めた人だった。
 それでもなお、彼女の唇は赤く、黒い髪は豊かだった。私はどれほど、若き日の情熱を彼女のために燃やしたか、今を以ても解らない。結ばれて恋が愛に変わる時になっても、私はまだ彼女に恋をしていたのだった。
 彼女の声には時と共に掠れが混ざるようになったが、それでも、世間の同年代の女よりは張りのある声だと思う。

 一方、綾子――息子が大学を卒業すると同時に結婚した女性の声は、ここからでは聞き取れない。何も喋っていないのかも知れない。妻の前で、ひたすら頭を垂れているのだろうか。
 妻は綾子が気に入らない。
 妻は、一粒種の息子を溺愛していた。私と結婚しても商社に勤めていた妻は、息子が生まれるとすぐに仕事を辞めた。その時には親子三人で充分やっていけるだけの金を、私は稼いでいた。別に彼女が無理をして勤めに出る必要はなく、それは私が退職する日に至っても変わらなかった。幸せなことだと思う。
 思えば、私はまだその頃は、彼女に恋をしていた。それも若い恋だった。
 嬉しかったのだ。最愛の恋人が、自分の家庭の中にだけ留まってくれると言ってくれたのだ、と。如何にも短絡的な話だが、当時はこの喜びが永遠に続くと信じていた。
 だが彼女が家庭に留まるのを決めた理由は、私にではなく、息子にあった。
 彼女にとっての全ては息子だったと気づいたのは、結構あとのことで、私はその瞬間ばかりは、実の息子に激しく嫉妬して――すぐに後悔をした。

 母に愛され、父に妬かれた息子は、やはり重過ぎる愛を負担に感じていたようだ。
 もっともそれを母に告げるような子でもなく、そして私に打ち明けることもなく(これは私が悪かった。私は妻が息子に手を焼くのをいいことに、仕事にばかりかまけてばかりいた。息子と向き合うのは、正直嫉妬したことを覚えている以上、どこかバツが悪かった)、ただそれで心根が曲がることなく育った。
 いや、曲がっていたのかも知れない。少なくとも妻にとっては。
 最後の最後で、妻はしっぺ返しを喰らった。
 妻は、息子には自分が選んだ相手を宛がうつもりでいた。それはかねがね、彼女は私に嬉しそうに語った。私は聞いているふりをして、その実、いつも聞き流していた。私は彼女に恋をして結婚にこぎつけたのだ。息子にもそんな気概を持って欲しいと何処かで、勝手に思っていた。
 そして私の思いだけが叶った。
 息子は、大学で知り合った女性との間に子をもうけた。
 妻はそれを知って狂乱した。息子の前ではいつも通りだったが、私の前でその女に対する罵詈雑言を吐き出し続けた。呪いの一夜だった。その呪いが、千年の恋を逆さのものに変えた。
 私はその日のことを、忘れないだろう。

「どうしてこんなのを貰ったのかね」

 そして次の日から、妻は綾子に堕胎させることばかり考えていた。
 中絶の説得も、言葉巧みに行ったがどれも徒労に終わるほど、綾子の意志は固かった。私は知っている。妻が何度「殺してやりたい」と言ったか、また綾子を後ろから押そうとしたかを。
 だが、結局それも叶わないまま、妻が折れた。
 息子が実に誠実な青年に育ったことを、恥ずかしながら私はその時に初めて感じた。

 息子は、綾子に恋をしていたのだろう。
 かつて私が、妻に恋をしたように。

 ――私は床からのろのろと起き上がった。トイレに行きたかった。

 まだ妻の声は聞こえてくる。
 息子が生まれて、妻が家庭に入ることを決めた年に買ったこの家は、所々が綻びたように、傷んでいた。せめてもう少し壁を厚くした方がよかったか。
 部屋を出ると、妻の声はいっそう大きくなった。綾子の声は聞こえない。
 息子の声は聞こえるはずがない。息子は、仕事で重要な案件を抱えて、帰りが遅い。孫はもう幼稚園に通う年頃だ。その下はまだいない。
 幸いにも、トイレは彼女たちの顔を見ずに行ける場所にある。

 だが、せめてもう少し早く行っておけばよかったと、私は後に少しばかり悔いた。









 私にはもう、妻が汚物にしか見えない。
 トイレから出ると私は、溢れそうになる涙を堪えて、ようやく姑から開放されてダイニングから出てきた綾子と鉢合わせた。
 美しい女だった。
 どんなにか心細いだろう。息子は、私よりも冷めやすい性格だったのか――。



                            【終】
作品名:理不尽 作家名:ミヤ