優しい弾丸
雨は無情にも全てのものに降り注ぐ。泥に塗れたブーツの爪先が、その冷たさをひんやりと主張し始める。『終わった』男はそう感じた。そこは焼夷弾の煙と血に塗りたくられた焼け野が原だった。粉々に砕けた砲台を横に、呆然と立つ男の背中は、漫然と勝敗の結果を体現していた。
男の名は、アペトゥムペという。彼は砲台隊八番隊長を務めていた。彼が務めた指揮は全て、母国レプンソの天才と呼ばれた、アシケペチという戦略家の計画通りに進められた。長い、長い戦いが続いた。消耗戦になってなお、男は勝利を信じていた。彼の背後には、世紀の奇才と名高いアシケペチがいたからだ。あの人がいれば、必ず何とかなる。それだけを信じて、彼は部下を鼓舞し続けた。足元に広がる敗北の影を、あえて気づかない振りをしながら。
それが今、終わった。残ったのは、崩れた城と、自身の中にわずかに残っていた自尊心。白い忘却の彼方に、彼は身を委ねようとしていた。誰もが思ったことだろう。忘れたい、と。死のとば口を覗き込み、命の軽さを目の当たりにした全ての兵士達が。戦場は、唐突な静寂に包まれた。停戦だ、と誰かが囁く声がする。
この光景を何と喩えたら良いか、アペトゥムペは頭が困惑して分からない。長い平和に弛んだ戦闘本能が、決して見ることのなかったもの。血の匂い、砂の味。こみ上げる吐瀉物の饐えた傷み。泰平とは至極かけ離れたもの。彼自身、指揮を振るいながらも、何度も込み上げてくる疑問があった。何故、戦うのか。それは必然的に、何故、人はこうもあっけなく死を迎えるのか、という問いでもある。
大勢の兵士が命を落としていった。次第にアシケペチの手腕を疑う者が増えていった。彼は最も戦場に遠い所から指示を行うだけで、一切の危険が降りかかることはなかったから。まるで神のように、台座の高い場所から戦場を見下ろし、兵士達を駒のように扱っていく。しかし、彼もまた人間に過ぎない。何も兵士と変わらない。ただ、特別彼に才能があったというだけのことで、彼は生死の蠢く戦場に身を置くことが許されない。何という理不尽な、と感じた者は少なくない。崇めながらも、恨む。嗚咽と同時に、手を伸ばす。そこに込められた想いは一つだけ。『助けてくれ』ただ、それだけだった。
部下や同僚の数が減っていく中で、アペトゥムペはまた、敵国キムンヌタプ兵士の無残な死に様をも目にしてきた。破裂した内臓。動脈の色も鮮やかな切断された足の切り口。腐った腕を振り回してまで襲い掛かり、そして伏していった狂気。そこには神の慈悲などない。だが、祈りは日増しに増えていく。死にたくない。負けたくない。殺されたくない。殺してでも生き延びたい。人間の、原始に遡るかのような真摯な祈り。死を冠する神は無表情に鎌を振り回して、あてどなく人の命を奪い去っていく。それはもう、唐突に。
そして今、命の恵みの雨が降りしきる。この場所にもう染み付いてしまった、虐殺という名の病を癒すかのように。
彼は知っていた。アシケペチが最後に敵陣に乗り込み、自刃覚悟で戦闘終結を訴えに行ったことを。これは、ごく少ない幹部の者達だけが知りえた情報だった。アシケペチは戦っていたのだ、と今ならアペトゥムペは思うことができる。彼は戦闘の全責任をその肩に負い、更に幾万の命を腕に抱え、最後には身を賭して敗北を自国の良しとした。敵国に向かえば、どんな悲惨な死が待ち受けていようか想像に難くなかったにも関わらず。自分にそんなことができようか。部下の命を守る為に、死に自ら飛び込んでいくことなど。自分だとて命は惜しい。それの何が悪いのだというのか。彼は降る雨の中、頬が熱く燃えていく感覚を覚えていた。感謝。厭悪。安堵。後悔。様々な感情が彼の胸の中を去来する。
この戦が終わったら…。よくそんな話を同僚や部下達としたものだ。初めは気楽に、そして段々互いを励まし合うように。最後には、縋るような思いで。そんな夢物語は最早何の意味も持たない。冷たい雨の雫が、これが現実なのだと教えてくれる。自分達は、負けた。しかし、勝ったからといって何を得たというのだろう。そこにもまた、あまりにも軽く意味のない死が襲い掛かり、そして自分達の手の平は敵の血に塗れ、消えない傷は己を責苛んでいく。
殺し合いからは、何も生まれない。それだけがこの戦争で、アペトゥムペの学んだ唯一つのことだった。
最後まで彼らの上に君臨し、その広い手で自分達を覆い守ってくれたアシケペチの行方さえ、分からない。英雄は、消えた。
突然、声が聞こえた。自分を呼ぶ声だ。アペトゥムペは周りに人がいる事を失念していたので、しばし驚きで声が出なかった。やがて、声の主が、傷を負い崩れた砲台の後ろに蹲っていた部下だったと気づく。彼は、そっとその者を見た。目が合う。何故か、新たな涙が溢れそうになった。数少ない、生き残った部下だった。ムニンという男の傷の手当を最後にしたのは自分だ。矢が刺さった後の傷跡は、その持ち主の生死の揺らめきを露呈するかのように、腐り始め、ぶよぶよとしていた。その様が、自分は愛しくて仕方がなかったのを想起する。
「傷は、どうだ。」
やっと、それだけが言えた。言葉を口にするのも、口内がべっとりとしていて、難儀する。
「もう、もたないと、思います。手当てしてくださったこと、私は忘れません。隊長…。」
「そんな事はどうでもいい。雨は怪我人にはきつかろう。どこか、移動しなければ。」
勢い良く、ムニンはアペトゥムペの腕を掴んだ。彼は再度驚いて身を竦ませる。男のどこにそんな力が隠れているのかと思うぐらい、力強く留められたからだ。雨に濡れた顔は、かすかに紫の色に染まっていた。何度も目にしたことのある、死の兆候。今また、消えゆく命がここにある。彼はムニンに大きな恩があった。だから、最期の言葉を聞き取ってやろうと決意し、しゃがみ込んで、同じ高さで目線を合わせた。ムニンは、ほんの少しだけ、微笑んだ。暗い闇の中に一瞬だけ灯った、小さな安らぎの光のように。
「皆が、アシケペチ様を、稀代の英雄だと、讃えましたが、私は、違います。貴方こそが、私の希望の光であり、唯一の崇め奉る英雄でした、アペトゥムペ隊長。雨が降る前、膠着した戦場で、横たわっていながら、思っていました。こんな死に方も、悪くはない、と。」
アペトゥムペは言葉を発することができなかった。雨は勢いを強めて、二人の背中を叩いていく。雨の雫が、互いの頬を冷たく撫でては離れる。今度は、まるで自分を責めているかのように。
それは一瞬の出来事だった。前戦に出ていた歩兵隊に伝達に走ったところを、弓で狙われた。本来なら幹部であるアペトゥムペの仕事ではなかった。しかし、彼はそれを良しとしなかった。それ程に彼の指揮する部隊の損害はひどかった。疲弊しきった部下を休め、まだ余力のある兵士数人を護衛に、伝達に向かったのである。
その瞬間。一人の部下が叫んだ。もう一人は同じく弓を構えて狙った。そして、無情にもアペトゥムペに放たれた死の穂先は、彼ではなく、咄嗟に前に立ちふさがったムニンの腹を貫いた。
男の名は、アペトゥムペという。彼は砲台隊八番隊長を務めていた。彼が務めた指揮は全て、母国レプンソの天才と呼ばれた、アシケペチという戦略家の計画通りに進められた。長い、長い戦いが続いた。消耗戦になってなお、男は勝利を信じていた。彼の背後には、世紀の奇才と名高いアシケペチがいたからだ。あの人がいれば、必ず何とかなる。それだけを信じて、彼は部下を鼓舞し続けた。足元に広がる敗北の影を、あえて気づかない振りをしながら。
それが今、終わった。残ったのは、崩れた城と、自身の中にわずかに残っていた自尊心。白い忘却の彼方に、彼は身を委ねようとしていた。誰もが思ったことだろう。忘れたい、と。死のとば口を覗き込み、命の軽さを目の当たりにした全ての兵士達が。戦場は、唐突な静寂に包まれた。停戦だ、と誰かが囁く声がする。
この光景を何と喩えたら良いか、アペトゥムペは頭が困惑して分からない。長い平和に弛んだ戦闘本能が、決して見ることのなかったもの。血の匂い、砂の味。こみ上げる吐瀉物の饐えた傷み。泰平とは至極かけ離れたもの。彼自身、指揮を振るいながらも、何度も込み上げてくる疑問があった。何故、戦うのか。それは必然的に、何故、人はこうもあっけなく死を迎えるのか、という問いでもある。
大勢の兵士が命を落としていった。次第にアシケペチの手腕を疑う者が増えていった。彼は最も戦場に遠い所から指示を行うだけで、一切の危険が降りかかることはなかったから。まるで神のように、台座の高い場所から戦場を見下ろし、兵士達を駒のように扱っていく。しかし、彼もまた人間に過ぎない。何も兵士と変わらない。ただ、特別彼に才能があったというだけのことで、彼は生死の蠢く戦場に身を置くことが許されない。何という理不尽な、と感じた者は少なくない。崇めながらも、恨む。嗚咽と同時に、手を伸ばす。そこに込められた想いは一つだけ。『助けてくれ』ただ、それだけだった。
部下や同僚の数が減っていく中で、アペトゥムペはまた、敵国キムンヌタプ兵士の無残な死に様をも目にしてきた。破裂した内臓。動脈の色も鮮やかな切断された足の切り口。腐った腕を振り回してまで襲い掛かり、そして伏していった狂気。そこには神の慈悲などない。だが、祈りは日増しに増えていく。死にたくない。負けたくない。殺されたくない。殺してでも生き延びたい。人間の、原始に遡るかのような真摯な祈り。死を冠する神は無表情に鎌を振り回して、あてどなく人の命を奪い去っていく。それはもう、唐突に。
そして今、命の恵みの雨が降りしきる。この場所にもう染み付いてしまった、虐殺という名の病を癒すかのように。
彼は知っていた。アシケペチが最後に敵陣に乗り込み、自刃覚悟で戦闘終結を訴えに行ったことを。これは、ごく少ない幹部の者達だけが知りえた情報だった。アシケペチは戦っていたのだ、と今ならアペトゥムペは思うことができる。彼は戦闘の全責任をその肩に負い、更に幾万の命を腕に抱え、最後には身を賭して敗北を自国の良しとした。敵国に向かえば、どんな悲惨な死が待ち受けていようか想像に難くなかったにも関わらず。自分にそんなことができようか。部下の命を守る為に、死に自ら飛び込んでいくことなど。自分だとて命は惜しい。それの何が悪いのだというのか。彼は降る雨の中、頬が熱く燃えていく感覚を覚えていた。感謝。厭悪。安堵。後悔。様々な感情が彼の胸の中を去来する。
この戦が終わったら…。よくそんな話を同僚や部下達としたものだ。初めは気楽に、そして段々互いを励まし合うように。最後には、縋るような思いで。そんな夢物語は最早何の意味も持たない。冷たい雨の雫が、これが現実なのだと教えてくれる。自分達は、負けた。しかし、勝ったからといって何を得たというのだろう。そこにもまた、あまりにも軽く意味のない死が襲い掛かり、そして自分達の手の平は敵の血に塗れ、消えない傷は己を責苛んでいく。
殺し合いからは、何も生まれない。それだけがこの戦争で、アペトゥムペの学んだ唯一つのことだった。
最後まで彼らの上に君臨し、その広い手で自分達を覆い守ってくれたアシケペチの行方さえ、分からない。英雄は、消えた。
突然、声が聞こえた。自分を呼ぶ声だ。アペトゥムペは周りに人がいる事を失念していたので、しばし驚きで声が出なかった。やがて、声の主が、傷を負い崩れた砲台の後ろに蹲っていた部下だったと気づく。彼は、そっとその者を見た。目が合う。何故か、新たな涙が溢れそうになった。数少ない、生き残った部下だった。ムニンという男の傷の手当を最後にしたのは自分だ。矢が刺さった後の傷跡は、その持ち主の生死の揺らめきを露呈するかのように、腐り始め、ぶよぶよとしていた。その様が、自分は愛しくて仕方がなかったのを想起する。
「傷は、どうだ。」
やっと、それだけが言えた。言葉を口にするのも、口内がべっとりとしていて、難儀する。
「もう、もたないと、思います。手当てしてくださったこと、私は忘れません。隊長…。」
「そんな事はどうでもいい。雨は怪我人にはきつかろう。どこか、移動しなければ。」
勢い良く、ムニンはアペトゥムペの腕を掴んだ。彼は再度驚いて身を竦ませる。男のどこにそんな力が隠れているのかと思うぐらい、力強く留められたからだ。雨に濡れた顔は、かすかに紫の色に染まっていた。何度も目にしたことのある、死の兆候。今また、消えゆく命がここにある。彼はムニンに大きな恩があった。だから、最期の言葉を聞き取ってやろうと決意し、しゃがみ込んで、同じ高さで目線を合わせた。ムニンは、ほんの少しだけ、微笑んだ。暗い闇の中に一瞬だけ灯った、小さな安らぎの光のように。
「皆が、アシケペチ様を、稀代の英雄だと、讃えましたが、私は、違います。貴方こそが、私の希望の光であり、唯一の崇め奉る英雄でした、アペトゥムペ隊長。雨が降る前、膠着した戦場で、横たわっていながら、思っていました。こんな死に方も、悪くはない、と。」
アペトゥムペは言葉を発することができなかった。雨は勢いを強めて、二人の背中を叩いていく。雨の雫が、互いの頬を冷たく撫でては離れる。今度は、まるで自分を責めているかのように。
それは一瞬の出来事だった。前戦に出ていた歩兵隊に伝達に走ったところを、弓で狙われた。本来なら幹部であるアペトゥムペの仕事ではなかった。しかし、彼はそれを良しとしなかった。それ程に彼の指揮する部隊の損害はひどかった。疲弊しきった部下を休め、まだ余力のある兵士数人を護衛に、伝達に向かったのである。
その瞬間。一人の部下が叫んだ。もう一人は同じく弓を構えて狙った。そして、無情にもアペトゥムペに放たれた死の穂先は、彼ではなく、咄嗟に前に立ちふさがったムニンの腹を貫いた。