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飛び梅の追憶

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「今朝、お父様が亡くなられたの」
紅姫がそう呟くと、少年は薄っすらと笑った。芽吹の叫びを抱き込んだ風が吹き込むと紅姫の髪は面白いように踊るのに、紅姫よりも幾分か背丈の足りないその少年は、何も揺るがされることなく梅の木に重なるように立っている。それはまるで周りの景色から切り取られたように浮いている。事実、紅姫は少年が人ではないことを知っていた。
不思議なほど風の強い日である。春はすぐ側まで足音を聞かせ、花の蕾は日に日に柔らかくなっていく。一足先に開花を遂げたその小さな白梅の木は既に疲れたように散り始めていたが、香りを根強く辺りに振りまいているのは、最後の意地なのだろうか。息を吸い込むたび、水気を含む風と共に、紅姫は眩暈すら起こしそうなその甘くない梅の香りを喉の奥で感じるのだった。
「それは、ひどくかなしいことだ」
幼い唇が開いて意外なほど発音のはっきりとした言葉が流れ、少年は大人びた表情を作った。少年は、五つか六つくらいの、紅姫よりも二つは年下に違いない子供の見かけをしているが、確かなことに紅姫よりもずっと大人びているのだった。少年は時々紅姫の知らない言葉を使うし、紅姫にはよく分からないものの考え方もする。だから、彼は彼であるけれど最早彼ではないのだということを、紅姫は知っている。
「私はあの人のためにはるばるここに来たというのに」
記憶の底の姿とぴたりと重なる少年が、ゆるりと溜息をついた。この少年が小さな梅の木の生み出すまぼろしであることも、紅姫は知っている。
「もっと、良い花を見せたかった」
少年は、昨年亡くなった紅姫の弟によく似ている。
とても、とても、よく似ている。

***

さめざめと泣いている。
惑うように吹く風の隙間を縫って苦しげな嗚咽が老いた耳に届き、白太夫は砂利を踏む足を止める。女の悲痛な声だ。見回すまでもなく声の主はすぐ側の裸の木の根元に見つかった。やんごとない身の上と分かる派手な色合いの豪奢な着物を広げて髪を四方に伸ばし、その女は蹲って泣いているのだった。着物が汚れるのにも構わず、袖が涙で色を変えているのにも気付かず、川の如く流れる髪の艶がそうと分かるほど失われていても分からず、女はこの世の絶望を目の当たりにしたかのように泣いていた。その様は冬の間にすっかり色の落ちた庭の中で、酷く浮いて見えて仕方ない。
本来ここにこのような女はいない筈である。少なくともここはこの女の敷地ではなく、白太夫の憶えにも見つからない。他人の家の庭で泣く女。できれば関わりたくはないが、気付いたからには咎めなければならないだろう。一つ溜息をついて、白太夫はそっと女の側に寄って声をかける。
「もし、どうされた」
かけつつ、白太夫は目に鮮やかに焼きつく紅色の着物を眺めて考える。女は招かれた客人か、ただ迷い込んだか。どちらにしろ随分と無礼な女だ。側についている者はいないのか。そもそも如何にして入ったか。簡単に入れる場所ではない。あれこれ推測しているうちに、女の頭が少し動いて多少顔を上げたらしかった。重く垂れる髪や涙で色の変わった袖に隠されて、顔までは窺えない。
「とてもさみしくて、しかたないのです」
女が掠れた声で堪えるように呟いた。勿論このような答えが欲しくて前の問いを投げかけたわけではない。女は再び顔を伏せて泣き始めた。
これは面倒な手合いだと白太夫は判断する。理由は分からないが衝撃的な出来事があって感情に溺れているのだろう。そしてそのような自分に酔うのだ。女というものは大抵こうである。
女の泣き声に連なるように寒風が吹き付け、白太夫は思わず身を竦ませる。歳を追うごとに膝や腰に疼痛を抱えるようになってしまった老体に、この寒さは些か辛い。さっさと女を立ち退かせてしまおうと思い、白太夫は語調を和らげるよう努めながら再び話しかけた。
「ここは道真公の邸宅です。あなたがどなたかは存じませぬが、ここにはいない方が良い。風も冷たくございます。迎えの者を寄越しましょう」
だから、あなたがどこの家の者かをお教えください、と白太夫が続ける前に嗚咽が激しくなり、女は切れ切れの息の間にまくし立て始めた。
「ここはもう、あの人のお屋敷ではありません。あの人はもういらっしゃらないのです。あまりにとおくへ行ってしまわれた。私をおいて行ってしまわれた。きっともうおもどりにならない。もうすぐ春がくるというのに。あの人はいないのです。春がくるというのに。ここはもう、あの人のお屋敷ではありません」
ああ、と衝かれたように一声上げて、女はまた泣き伏した。身体中余すことなく寂しさや悲しさや苦しみで満たされたその様は尋常ではなく、白太夫も困惑する。何より、道真をこれほどまでに想う女の存在に驚いた。少なくとも彼の人がここにいた頃に、そのような女の噂は一つもなかった筈だった。
謀反を企てた菅原道真が大宰府へ流されたという衝撃的な事件は、まだ色褪せてはいない。しかし、女のように嘆くにはそろそろ時間が経ち過ぎたように思えて仕方ない。道真が旅立ったのはもう一月は前の話で、それからこの女はずっとこうして涙で袖の色を変え続けていたとでも言うのだろうか。
ひょうひょうと楽しげに冬の風が吹きつけ、痛みがじわりと白太夫の骨ばった膝を苛む。この寒い中、この女は一体いつからこうして泣いているのだろう。
「あなたは、一体どなたでございますか」
女に一歩近付いて、白太夫は聞く。これさえ分かればどうにかなる。今も道真の夫人が住むこの敷地に女をこれ以上いさせるわけにはいかないのだ。女はやはり白太夫には顔を見せずに、しかしやけにくっきりと答えた。
「梅です」
名前ではなく、家名が知りたいというのに。故意なのだろうかと白太夫が眉根を寄せたとき、女が俄かに顔を上げた。髪がさらりと流れ落ちて溜まる。
「私は梅です。この梅の木です。あの人がめでてあいしてくださった、この梅でございます」
気付けば泣き声が止んでいた。着物の鮮やかな色が風に滲む。そう言えば、女が縋りついていたこの木は、梅の紅い花を咲かせていたのだった。春の手前になると広がる唐の香りを思い起こして、白太夫は唾を呑み込む。
「旅立ちの朝、あの人は私をながめてとても残念がるのです。むこうにも梅はあるかもしれない。けれど、お前ほどうつくしい梅はいないだろうと。そうして、あの人は最後までわらったままでした。私が花を咲かせるたびにのぞかせる、私の大好きなそのお顔で、最後に私に歌をおうたいになったのです」
女が立ち上がった。こちらに背を向け、風に髪を流し、裸の枝に蕾をつけた木を見つめて、女は音もなく立っていた。顔は見えない。元より、まだ一度も見ていない。
失われていた髪に艶が戻ったかのようだった。風が吹く。涙の乾いた裾がなびく。梅の香りが鼻先を掠めたような気がしてならない。

東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春を忘るな

初めに聞いた女の声は、こんなに耳触りの良い音だっただろうか。先ほどまで泣いていたとは思えないほど軽やかに詠い上げた女は、白太夫に顔を見せない角度を保って続けた。
「春はわすれませぬ。花も匂いもわすれませぬ。けれど、私がわすれなくとも、あの人にお見せすることはもうかなわないのです」
作品名:飛び梅の追憶 作家名:桜山葵