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Le Viandier -ル・ヴィアンディエ-

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人間の尊厳は何処に付与されるかと言う問いに対しては、知性であるという見方が大勢を占めている。
 人間は知性ある生物である。ゆえに、遺体を故意に損壊せしめてはならない。
 それが食人という風習を諫止する為に、肉食と人肉食を分別する倫理として用いられる主なメソッドである。
 人権は、「与えられる」ものである。
 23の夏まで僕はその事象を疑いもしなかった。
 
 ただ、23の僕の隣は、Leonor(レオノール)が居た。

 ソファに腰掛け、膝に乗せられた頭を手櫛で梳かれながら、彼女はぽそりと呟いた。
「ねえ、私を食べてくれない?」
 レオノールと僕はいつの頃からか傍に寄り添うようになっていた。
 Côte d'Azur(コート・ダジュール)の社交クラブで出会ったような気がするが、レオノールは決して出自を明かそうとしなかった。それでも、構わなかった。僕らは、犬のように濡れた身体を擦り合い、傷付けた。
 性交渉の最中に、彼女が歯を立てて僕の首筋に噛み付いてきた事があった。
 僕が一瞬痛みに顔を顰めると、彼女は誰かに注意されたかのようにばっと頭を放し、「駄目!」と一言言い放つ。
「別に……噛み千切ってくれてもよかったのに」
「貴方は私より"下"だもの」
 彼女が、自分を食べる事を提案したのは、その次の日だった。

「上下を無くしましょう。ちゃんと、貴方が、私を、食べるの」
「君が望むなら、いいけど」
「たぶん……私たち、行けるわ。愛の、もっと深いところまで」
 彼女の主張は、「殺人が罪になるのなら、生きたまま食べればいいじゃない」というもので、その三日後には、さっそく非合法のサイトから通販でうちに局所麻酔が届いた。

 僕らがふだんチキンやサラダを食べているダイニングのテーブルが手術台になり、レオノールは瑞々しく弾力に富んだ裸の四肢を木目の台上に投げ出し、俯せになった。透明でどろりとした薬に満たされた注射器を指で弾くと、ピンボールのように微量の水滴が宙に弾かれた。
「レオノール、麻酔を打つよ」
 繊維のような注射針を臀部に射し込み、キシロカインを注射する。
 量、味ともに、食肉に最も適しているのは筋繊維と脂肪分を適度に混合させた腹肉であることは他肉食を鑑みても自明の理であろうが、生きながらにして肉を味わえる箇所と言うと話を限られてくる。

 その晩、僕が選んだディナーは、臀部、大臀筋だった。

「食べることで得る自意識は、食べないで得るそれよりずっと高尚なはずよ」
 如何なる性交渉の果てにも辿り着けない、完全なる奉仕があるとして、僕らがそこに辿り着く意義は?
「貴方が当たり前に考えている権利が見知らぬ権威者に付与されたものであるとして、それに拠らないで、貴方の中に、私の一部を永遠に生きさせて。人間は人間を食べて、ようやく人間になれるのよ」
 1%キシロカインが、彼女の神経に伝わる活動電位を阻害し、痛覚を麻痺させる頃合いになった。
 疵一つ無い肉体に線を入れるのは良心を咎めたが、おずおずとナイフを宛がうと、桃でも切れるように、刃先はすっと吸い込まれた。ぷち、と音がして、赤い液体が盛り上がる。
「血が出たよ」
 手術の経験など無い僕は思わず狼狽してしまう。
「吸って」
 僕は朱に染まっていく緑のテーブルクロスをこれ以上汚すまいと滴る血液を啜り飲み込み、再び顔を上げると、神経を傷付けないように、更に体内に異物を侵食させていく。
「愛してるよ、レオノール」
「私の、名前を、言いながら切って、スペルを」

「L……L(あっ),E(あ),O(ああっ),N(はん),O(あっ),R(あっっ!)」
 僕がスペルを一文字ずつ読み上げる度に、狭苦しい空間に嬌声が響き、彼女の爪先が、ピアノのハンマーが弾かれるようにびくんと脈打つ。安い電球が艶めかしく肢体を照らし上げ、薄暗い部屋で僕が行っていたのは、それを調律する作業だった。
 人は、人を食べる事で人でなくなる。文化が、食人を否定する。それを否定する為に、僕は愛する人を食すのだ。切除して、吸引して、切除して、吸引して。甘美な血液吸引と患部切除作業を続ける。
 臀部の深い所にナイフを進めると、ぐにゃりという感触に行き着き、それで先端が股関節に触れた事が解った。そのまま尾骨から腸骨翼に掛けて刃先を滑らせ、逆四角錐を塑像するようにぎちりと動かす。横に薙ぐ時、ぶちぶちと神経の切れる音がしたが、彼女は「神経が切れた感触がしたわ」と笑うだけだった。

 噎せ返るような鉄臭い体臭が部屋に充満する。麻酔をかけていても、血の臭いは消えないという事を学んだ。
「切れたよ」
 4cm程度の肉塊でも、神経から切り離してしまうと、それだけで形を保つ事は難しいらしく、不細工なプリンのように崩れ爛れた。
「君も、食べる?」
「私は要らない。ウロボロスになってしまうもの」
 だから僕は脂肪と血液の滴り落ちるかつて臀部だった肉に一口目の歯を立てた。まとわりつく血のねっとりとした芳醇な香りが、刺身の肉の新鮮さに、何倍にも高潔な風味を与え、さほど咀嚼せずとも水を飲むように細かな肉塊は喉に滑り落ちた。

「おめでとう」
 彼女は、僕の喉が蠕動しきるのを見届けて、そう言って笑った。
「私たち、真から一つになれたのよ」
 僕はその言葉に駆り立てられ、熱にうかされるように残りの肉を食した。

 結論から述べる。

 それから数日後に、黒ずくめのVIP警護――フランス諜報部の精鋭だった――が大挙して押し寄せ、レオノールを連れ去った。レオノールは、何処かの国の、やんごとなき身分の令嬢だったらしい。

 裁判にかけられた僕のことを、偉そうな連中が卑しい"下人"と睨み、罵り、貴人の身体を陵辱、損壊し、あまつさえ捕食した罪を問い、僕は痴呆のようにその裁判を余所の高みから眺めていた。全てが虚しく過ぎた。

 それきり、僕とレオノールは会う事はなかったが、それでも彼女の残した柔らかな臀部の食感がしこりのように心に澱んだ。

 卑俗な存在でありながら要人を食した僕の事を、数え切れないほど多くの人が、身分を越境し、国歌反逆を企んだ卑劣なcoup d'état(クーデター)の主犯だとして非難した。

 その実感は、淑やかな液体が動脈から静脈へ受け流されるように連綿と続き、僕は彼女が身体に溶け込んでいく様を陽炎のように眺めていた。

 人が人を越境し、銃殺されその肉体が隠蔽され尽くすとしても。

 人を越権する存在を食べた僕は、
 いったいいま何になったと言うのだろう?