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文殊(もんじゅ)
文殊(もんじゅ)
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また、春さる

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 その女は、私をいつも少し離れたところから表情を変えずに眺めていた。眺めながら、特に何をするわけでもなく見つめ続けて、数秒するとまたどこかへと歩き出す。それの繰り返しを、私も同じく黙っていつも見ていた。私は知っている。女は私だけでなく、他の者にも同じようなことをしているのだということを。
 少し時を経たある日、女と私はいつもと違う距離をおいて出会うことになった。お互いそれを意識したのか、私は近寄り、女はとどまったまま口を少し動かした。足を進めた私に怯えるように体を少し強張らせて、女はそれでも動かずにいる。私は女のからだの一部に自分の濡れた体を押しつけて、上を見あげた。人だというのに奇妙な緑色をした女の足は、体を擦りつけるとほんのり温かい。
 そうしている内に女の顔が私に近づいた。二足で歩く彼ら人間は、私のような存在に近づくにはしゃがむ必要があるのだ。女は私を見る。そして遠目からでは知りえなかっただろうことを、私は知った。今まで女、と言っていたのは女であることは確かながら、思うより年若い。私は女と言うよりも彼女、という方が適切であろうと意識して彼女を見つめ返す。女にとっても、私にとっても互いはかつての認識より少し深くなったのだ。だから、私は女を彼女と呼ぶことにした。たとえ、彼女と同じように言葉を口にすることが不可能だとしても。
 少なくともこちらに敵意は見られない。ただし、困ったようにして彼女は私を見つめる。彼女の目は私がよく見る他の人間より、少しだけ薄い茶色だった。春先の少し温かい雨が降りしきる中、私はこの目を温かい日射し降り注ぐ時に見れば、どんなにか美しいのだろうと思った。
 そんな彼女が初めて私に向かって発した一言を、私は忘れない。
「アレルギーだから。ごめん、ね」
 気にすることはない。案ずるな、と口にできるなら苦労はないのだが私は彼女の次の言葉を少しだけ待つことにした。彼女は私と長く傍にいればその体に異常をきたすのだ。彼女の呼吸を困難にし、皮膚を赤く腫れあがらせ、苦しさで目を潤ませることになる。そういった人間がいることは私も他の者も知っていた。だからといってアレルギーなお前が悪い、などとはしない。少なくとも、私はしない。母と同じように外で生きるのを、苦だと思うことなどない。時に人間の気まぐれな優しさに甘え、時に作りだした物によって命を落とした仲間を見る。恐ろしいそれらの物からこの身を守れとも、私にずっと優しくしろ、とも言わないのだ。安心しろ、と言えはしないが私は鳴いた。彼女は私を撫ぜた。その手は緑色の足よりずっと温かい。
 彼女は昼間だというのにこの先に予定もないのか、私と数分こうしていても慌てるそぶりも急ぐ様子もなく共に居続けた。そうしてようやく私の腹のあたりを見て「妊娠してるの……」と囁くように口にする。言う通りである。私は彼女と私が互いを見るようになった頃、雄に孕まされた雌なのだから。その雄がどこの誰か、私は知らないだろう。また、相手も知らないのだろう。こうして、外に生きる内に私は一人で子を産み育て、母と同じように何度目かの子供を送り出した後ぱったりと消えるのだ。
「雨に濡れたらいけないよ。子ども、いるんだから」
 そう口にして、笑うような泣きだしそうな複雑な表情でもって彼女は私を見つめた。彼女はまだ年若い。子を産んでいるか産んでいないかその正確なところはしらないが、おそらく産んだことはないのだろう。ゆっくりと抱き上げられる中、彼女を見て私は確信するようにそう思った。抱き上げ方は、申し分ない。アレルギーだと言う割に私や他の動物が好きなのだろう、優しくけれどもしっかりと彼女は私を抱き上げて歩き始めた。私は抵抗などということはしない。もしこれで私の、腹の子の生命が脅かされたとしても、それはしかたのないことなのだと思う。彼女を信じた私の責任である。子に責任はない。そして私は、彼女を恨まないだろう。腹に子がいるというのに雨の中歩いていた私。そう、そんなことをしていた私が悪いのである。そう思いながら、私はまた鳴いた。お前を信じているぞ、と示すようにしてみたのだが、彼女は「雨、早くあがるといいね」とだけ呟いた。答えが意にそぐわなくとも、言葉を返された。私はその事実だけで、構わない。
 あれから、私は無事に子を産んだ。そして彼女が私を丁重に雨があがるまでもてなすという、あの出来事から数年が過ぎ去った春の初め、またどこかの雄に孕まされた。彼女の姿は、数年の間に見なくなった。残される寂しさもありながら、彼女がどこかで必ずや存在しているのだ、という意識のもとで私は他の人間をまた見つめていた。
 私は彼の名を知っている。坂本と呼ばれているのを見たからである。ただ、下の名前は知らない。坂本少年は学生服に身を包み、大きな鞄を肩にかけながらいつも朝早くいなくなり、夜や夕方に帰ってくる随分と規則正しく忙しそうな少年だった。彼を見ていたが、彼は私を見ることはあまりなかった。帰ってくる時はひどく疲れている顔をしながら、けれどもしっかりとした足取りで家へと向かうだろう彼の邪魔をすることは、私も他の者もしなかった。そのようなことは、するべきではないのだ。
 そうしている内にまた腹は膨らみ始め、彼女のことを思い返しながら私はまた雨の中を歩いていた。こうしていれば、再び会えるのではないかと思う。まったく、淡い期待である。私は、コンクリートの塀で見えない向こう側からやってくる人間の前をゆっくりと通り過ぎようとして、足を止めその人物を見あげた。坂本少年が、大きな黒い傘を持って立っている。
 彼は特に何を言うわけでもなく、私を見下ろししゃがんで傘の中に濡れている私の体を入れた。その分自分の鞄が濡れるのを、厭わないようである。私が鳴いて擦り寄ると、彼は大きいながら少し細い指先で私の喉元をくすぐった。傘の柄を手から離し、頭を布地につけながら、彼はもう片方の手で体を撫でて、腹の動く様に驚いたのか急いで腹から手を離した。
「妊娠、してんの」
 そう坂本少年は呟いた。私は応えるように鳴く。彼は妊娠ということに抵抗があるような声を出して私を見つめたが、私は気にしなかった。人の男も私たちの雄と同じように孕まない存在なのだ。ただ、私を孕ませた雄と坂本少年は同じではない。同じようなものではあるが、この少年は慣れていないだけである。接し方に戸惑い、困ったようにしながら静かに、腹ではないところを優しく撫ぜる手が、なによりそれを示している。
「……そっか、お前の腹には赤ん坊がいるんだ」
 あとどれくらいしたら、生まれるんだろうな、と呟いたのに答える術はない。私は黙りこんだまま彼を見あげる。「おめでとう」と静かに口にされた言葉を、素直に喜ぶべきか否か。私は迷った。彼の目は細められている。嬉しさなのか哀愁なのか、愛しさなのかは複雑で人の心情をさして知ることのできぬ私には理解しがたいその表情を、そっと抱きあげられてから私は舐める。彼は、私を少しだけ強く抱きしめた。温かい。春の雨が降る中で私は鼻先に落ちた水が流れるもとを見あげる。坂本少年よ、なぜ泣いているのかを私は問うこともできないが、ただこうして抱きしめられることならできる。
作品名:また、春さる 作家名:文殊(もんじゅ)