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道徳タイムズ

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第3話「侵略者と悲しみの間」


 真っ暗闇を抜けて、不思議な鍵を手にして、どんなものかも分からない「ネガティブ」という存在を知った。それがあることだけを知った。招かれざる客って言うのは、多分私が夕菜の心の扉を開けてしまえたことと関係があるって言うのはわかった。楼世さんとほとんど話すこともないうちに別れてから今度は謎の男の子遊馬まで現れて、でも、遊馬は優しい人みたい。まだ何かも分からないこの絆の鍵。与えてくれた三匹の精霊。そしてここからは、夕菜の知られたくない心の中。土足で上がりこんだ夕菜の世界。

「でも、ここは真白じゃないのね」
 私は辺りを見回して言った。夕菜の好きなぬいぐるみ。夕菜の好きなギンガムチェック。夕菜の好きな黄色と水色。夕菜の好きな……。ここはまさに夕菜の世界。夕菜の好きなものであふれかえっていた。それと、たくさんの思い出が、壁のいろんなところに映像で並べられていた。右で左で、いろんなシーンが流れてる。
「あまり見ないほうがいい。夕菜は見られたくないだろうから」
 ついキョロキョロしてしまう私に、遊馬が眼をつぶって冷静に言った。私ははっとして目を伏せる。きっとここで見たことを夕菜に言ったりしたら、夕菜は恥ずかしくて仕方ないだろう。それくらいは誰にでも分かる。夕菜を知っている人ならば。
「そうね」
私は頷いて、左右には目をやらないようにした。
「ここはまだ入り口だ。中枢に入るにはロックを解除しないといけない」
「ロック?」
「お前はネガティブといったな。それはもう既に夕菜を蝕んでいる」
 遊馬の話によると、ネガティブというのは負の念の集合生命体で、心のネットワークを創っている夕菜を洗脳して、この世界と、人の心をのっとるのが目的らしい。この世界にはそういう力がある。この世界が完成すれば、人の心を管理できるようになってしまう。夕菜はどうして、こんな世界を創ったんだろう。
「ネガティブは人の心の傷をえぐる。そうやって洗脳する。そして、三つの心がのっとられた」
「それを越えないといけないの?」
「ああ、そうだ。そしてそれは、その三人を知っているものじゃなければいけない」
「それが私?」
 遊馬は頷いた。この話の流れで何となくそうなのだろうとは分かったけれど、私は苦笑いしか出来なかった。その三人が誰だとしても、私は救えないと思ったからだ。私は人の心なんて分からない。分かろうとしないし、それを変えようともしなかった。だから、その人たちを知っていても、よく知らないと思ったから。
やがて、一つ目の扉が現れた。
「ねぇ、私が入ってもいいのかな?」
 拭いきれない悩みに恐くなる。怖気づく。私のことくらいは、ちゃんと分かっているつもりだけど、分からない。私はここを通っても、何も出来ない気がする。そんな私に、遊馬はまた寂しそうな顔をしてぽんぽんと頭を撫でた。
「やめて、私、子供じゃない」
「……俺も一緒に行く。だから、そんな顔するな」
「さっきあったばっかなのに、何言ってるの」
 私はそういって遊馬の手を払いのけた。だけど、まるで昔もこんなことがあったような気がして動きが止まる。私はいつか、同じようなことをしたような気がして。でも、私は遊馬のことを知らないから、そんなはずはないと扉に手をかけた。
「行くよ……」
 どうして私は、遊馬のことをよく知らないのに、夕菜のことを何で知ってるのかとか、夕菜とどういう関係なのかとか、そもそもなんでここに居るのか聞かなかったんだろう。

*     *     *     *     *

「遊馬、いるの?」
 案の定、そこは真っ暗な世界だった。私の知っている人の心。何も見えないのは、ネガティブの所為?
「安心しろ。いる」
 遊馬は見えないけれど声だけが聞こえた。しばらくすると奥の扉が開いて、一人の女性が現れた。
「楼世さん!?」
「あら、愛子ちゃん、きちゃったんか。招かれてないゆーたったのに……」
 それは確かに楼世さんだった。はじめてあったとき、私を睨んだときの冷たい目とも違う、空虚な瞳。楼世さんの目には私が映っているのかも怪しいくらい。焦点のあっていないガラスのような瞳。
「あれは、桜だ」
 遊馬が言った。桜というのは夕菜のお姉さんで、昔よく一緒に遊んでくれた人。
「どうして桜お姉ちゃんがネガティブに? それに楼世って……」
「それは、私が望んだからよ」
「この世界では、望んだ姿になれる。名前も、姿も思うまま。この世界では、ある程度理想を形に出来る」
 遊馬が付け足していった。潤いのある長い髪。りりしく整った顔立ち、確かに、そこにいたのは理想的なお姉さんだった。同時にまた分からなくなった。好きな形になれる世界。人の心を管理できる世界。どうして夕菜がそんな世界を創っているのか。この世界を夕菜が創っているというのがただ信じられなかった。楼世さん。桜お姉ちゃんが何故そこにいて、操られてしまっているのか。それも、暗い心。ネガティブに。何故なら
「桜お姉ちゃん。硬牙お従兄ちゃんはどうしたの?」
 今桜お姉ちゃんは硬牙お従兄ちゃんと幸せな日々を送っていると思っていたから。悲しみなんて入り込む余地もないくらい。
「硬牙はおらんよ。硬牙はおらんなった。喧嘩してしもた。もう、どうしたらええのかわからへん」
 お姉ちゃんとお従兄ちゃんの間に、一体、何があったんだろう。
 桜お姉ちゃんの手に、茨の鞭が握られた。
「遊馬、どうしたらいいの?」
「この世界では心が武器だ。思い浮かべれば手に入る。種類と形状は心持しだいだがな」
 武器を思い浮かべる。私は目を瞑った。夕菜の場所にたどり着くには、お姉ちゃんと戦わないといけない。いや、お姉ちゃんを操るネガティブと。お姉ちゃんの悲しみを受けて、お姉ちゃんと悲しみを断ち切る。そして現れた武器は刀だった。
「コレが私の武器……」
 心の世界なのに傷つけあわなければいけない。矛盾した世界。桜お姉ちゃんは私に向かって鞭を振るいだした
「くっ……」
「どうしたの? 戦わないの? 戦わないと先へは進めない。守ってるだけじゃダメ」
 桜お姉ちゃんの攻撃に容赦はない。形成を整えるまもなく何度も打ってくる。これがお姉ちゃんの悲しみの重さ。どうしてお姉ちゃんはこんなに悲しんでるんだろう。喧嘩した理由は分からないけれど、喧嘩したらしないといけないことが一つある。大人になるほどそれは難しくて、ついつい出来ずにいるけれど。
「お姉ちゃんは、お従兄ちゃんに謝れたの?」
 私がそういうと、お姉ちゃんの動きが止まった。お従兄ちゃんとお姉ちゃんは仲が良くて、絶対喧嘩なんかしたことなくて、だからこれは簡単なことだけど、分からなかったのかもしれない。少しだけ心が分かった気がする。お姉ちゃんの心。
「喧嘩したら、謝らなきゃ。相手が悪くても、許せればいいんだよ。だけど、喧嘩って、絶対どっちかが悪いわけじゃないから、謝ればいいんだよ。お互いに」
 お姉ちゃんの動きは止まって、私はすかさずその鞭をたたききった。黒い煙が立ち、辺りが明るくなっていく。
「そっか、そんな簡単なことにも気付かんかってんな。うち」
 お姉ちゃんはそういって泣き崩れた。だけど、その表情は少し穏やかだった。私は初めて人に言葉を投げかけた。
作品名:道徳タイムズ 作家名:黒衣流水