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モーゼ

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 地下道にはモーゼが住んでいる。
 アタシがバイトに行く途中のでかい地下道に、いつもモーゼはじっと目を閉じて座っている。糸屑みたいな白髪と顎髭が足元まであって、硬そうな肌に布を巻いた格好。都市だからそういう人たちは沢山いて話題にもならないけど、一人一人憶えているくらいだからアタシは彼らがそんなに嫌いじゃない。少なくとも、今のバイト先の連中よりは。広告主のいなくなった板だけの看板を見ながら、乾き始めた空気から逃れるようにマフラーを口元まで寄せた。
十九のアタシは専門学生で授業もまぁ出てて、将来の不安とかはいまいち無い。先輩も遊んでたけどいま就職してるし、数年後にはアタシも、味もそっけもない制服でOLやってんじゃないかな。はは努力とか、ねぇ? 隣を追い越してったストライプのださいスーツ着たオッサンの、靴下が大きく覗いた足首を見ながら薄く笑った。寒くない? アタシはこれから、黒のスカート履いてちょっと寒いからファーのマフラー巻いてバイトに行ってきます。あぁ寒いなぁ、急に寒くなりすぎだよ十月だからってさぁ、足を前に出すのもすうすうする。入口の幅の狭い階段を降りるとむぁっと生暖かい温度に包まれた。この時期中の人も多くなっているから薄暗い中は異様な圧迫感があって、ちょっと足を早めた。そして、俯いて目に入った自分の柄物のストッキングに、あ、と思った。
 そういえば、これ圭ちゃんと選んだやつだ。捨てなきゃ。
 足に、ぽんと何かが当たった。見るとヒールの踵の傍に、汚れたみかんが転がっている。薄暗い地下道の中でそれに手を伸ばし拾ったのは、モーゼだった。あれ珍しいって、まず思った。モーゼはいつも、”うちら”と別の空気を吸っているように関わらなかった。たまにいる物乞いするホームレスみたいなマネしてるとこも見たことないし、モーゼのいるとこだけ雲の上のようだだと思っていたのに、モーゼとアタシはいま目が合っていた。白髪と髭の間に小さな目が覗いてる。二重だ。なんだよモーゼ、けっこう可愛い目してんね。アタシがじっと見つめても、モーゼは黙ったまま灰色のみかんに手を伸ばしてすぐに目を背けた。コンクリの上を、ずりっ、と音がしそうな擦り方したから、みかんの皮潰れたんじゃないかな。ヒビ割れのように深いしわがモーゼの指にも顔にも刻まれていて、アタシの目はそれを木の肌を見るように見詰めた。

「おはようございます」
 金ピカの時計の針は6時10分を指している。薄暗がりのこじんまりとしたスナックの店内には、昨日のグラスが片づけられず乱雑に残っていた。カウンターのホワイトボードにはママの字で、買い物に行ってきますとメモが残してある。
「おはよーございまーす」
 掃除機を出していると、先輩の春菜さんが服装に似合わない大きなバックを手に入ってきた。
「春菜さん、学校からそのまま来たんですか?」
「そーだよー」
 カウンターを拭きながらそろそろ単位ヤバいのかな、と春菜さんの大きく開いた胸元を見る。学生バイトばかりのこの店で春菜さんは一番長く、ママから春菜さんが進級のためにやった逸話の数々もよく聞かされていた。
「あれー、週末も入ってんだ」
「…あ」
 彼女の、高く綺麗な声にイラッとするのはこういう時だ。春菜さんはシフト用のカレンダーを目敏く捲り目の端で笑いながら言外に、いいの? と訊いていた。今月おカネないんで、と正しいタイミングで返した。アタシは先月二年付き合った彼氏と別れてから、バイト日を増やしていた。そう、お金がいる。思い出の品を処分して、新しい物を買うために。
「あのさぁ、最近暇なんだったら、来週も入ってくんない?咲が土曜ダメんなったんだって」
 語尾までゆっくり話すその声に、何かがおかしい、とアタシの感覚が静かに警鐘を鳴らした。粘着質な、女たちが含んだ物言いをする時の独特の雰囲気。咲は、春菜さんのお気に入りだ。
「咲、彼氏の学園祭誘われたって―、最近仲良いみたいだから。学院の、古谷、君?」
 一気に、視界がガラス張りになったようだった。造り物めいた、温度を伝えない景色に。
 圭ちゃん。
「え、知らなかった?」
 白々しい。驚いたような、気遣うようなポーズの中に嘲笑が簡単に見て取れた。
「うん咲、六月からだよ?今のカレシ」
 すっ、と頭が冷えた。目の周りから表情が消えて、だから、春菜さんにはアタシの動揺がよく分かっただろう。頭のどこかは、横目にグラスに映る自分の顔を静かに見ていた。
「へぇ、そうだったんですか」
 反吐が出る。

 咲は、アタシと同じ学年でフワフワしてとにかく愛想のいい女だった。キャラクター物の手帳を使っているような。
 圭ちゃんやめてよ、だって、その女わけわかんないよ。そいつ前のカレシと別れる時どんなんだったか知らないの? なんでおかしいよ、待って、待ってよ。
 その後に及んで、圭太を責める気になれない自分が憐れだった。別れる時もそうだった。さんざん不満をぶちまけられてひどい振り方をされたのにアタシは何も言えなかった。圭ちゃんは、我慢するから。きっとあたしのことは結構前から愛想を尽かしていて、中途半端な優しさと弱さをアタシに注ぎ続けていたんだ。

 馬鹿みたいに空には星が見えた。吐く息が、空っぽのまま乾いた街を上がって行く。バイトが終わると逃げるように帰って、でも細い足首に力が入らなくて地下道の階段を転げ落ちるみたいに降りた。空気の流れが止まった地下道の中に入って息も止めてみたけれど、世界の何一つからも逃げられないような気がした。あぁ、モーゼがいた、モーゼ。友達みたいに自然に正面に座り込んだ。人目なんかもう何も価値がなかった。コンクリの地面も壁もざらざらしていて、湿っぽいのはアタシの体だけだ。あはは、ハハ。息だけの声は、本当に乾いた音にしかならなかった。始め、目の前に座ったアタシのことじっと見ていたモーゼは、でもすぐ目を逸らして白髪を揺らしどうでもいいように首を振った。それを見て、アタシは口元だけで笑った。
 悲しいのはなんだろう、彼氏に裏切られてたこと? 彼氏を取られて、それを面白がられてたこと? そんなんじゃない気がするよ。モーゼみたいになってみたいと思ったことがある。何度も。生活に恐怖もあるけれど、本当に怖いのは、そうなっても感じる空虚さは同じなんじゃないかって思うことだった。ただ、ただいつも、欲しがってもしょうがないような気がするんだ。人の心に、アタシが欲しがるものは埋まってないって。パンプスを寄せて、身を屈めた。アタシだね、ガサガサなのは。
 ねぇ、モーゼたちは何でこんな街に住んでるの?人と碌に関わらないのに、邪魔者扱いされてんのに、それでも街の方がいいの?食べ物があるから?似たような人たちがいるから? 嫌いの最上級は無関心っていうけど、嫌われるのと感情を向けられないのと、本当はどっちが楽なんだろうね。それでも、人はあったかいの?
 睫毛に溜まった涙が零れた時、モーゼの目がアタシを捕えた。やっぱり可愛い目だな。そうぼんやり思っていたアタシに向かい、彼はその木彫りのように深く固まった皺だらけの顔をさらに皺だらけにして、ニッ、と笑った。
作品名:モーゼ 作家名:江上