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骨まで愛して

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 テレクラで電話が鳴るのは至極当たり前の事なのに、僕は息を止めて仰天した。どうしよう。何を話そう。第一声は何だ? 喉が渇いて、取り敢えずもしもしと言おうとした唇が、貼り付いた。
「んも」
「フロントです。そのままの年齢でお話ください」
 受付で会った店員の声だ。
「あ、はい」
 すっかり忘れていた。この店は取次制だった。そして彼が言ったのは、年を誤摩化さずに、実年齢で話せと言う意味だ。そう理解した直後、唾を飲み込む間もなく、左の鼓膜を女の声が震わせた。
「もしもし」
「あ、はい」
 沈黙。受話器を持った掌が、粘り気のある汗で濡れた。顔の見えない相手にすら上手く話せない自分が情けない。言葉を探して焦る僕の耳に、街のノイズが薄く聞こえた。
 公衆コールだ。
 テレクラの電話は、大きく二種類に分ける事が出来る。一つは、自宅からのコール。もう一つは公衆コール、つまり外からのコールで、筋が良いのは当然、後者だ。自宅コールは暇を持て余した女が、喋りたいだけ喋って一方的に切って来る事が殆どで、出会いに発展する可能性はまずない。一方、公衆コールは自分がその時いる街のテレクラに、その日の出会いを求めて電話して来る事ケースが多く、殆どが援助交際目的だが、稀に素人からのおいしいコールがある、らしい……。尤もそれは、まだ出会い系サイトが今程流行していなかった頃の言い方で、小学生までが携帯電話を持つ時代になってからは、コールは専ら携帯からかも知れず、自宅コール、公衆コールという言葉自体が死語になっている可能性も高い。兎も角、すぐ近くに女がいるかも知れない状況に、僕は胸を高鳴らせた。女はまず確実に、街にいる。そう確信した。
 音を発てないように注意しながら唾を飲み込み、言った。
「あの、連休終わっちゃうね」
「そうだね」
「あ、名前何て言うの?」
「名前? いいじゃん別に」
 声から察して二十代後半から三十代半ばだろうか。自分から電話して来た癖に、極めて感じが悪い。
「そっか、まあ、そうだね」
 不公平な事に、お金を払った僕の方が、相手の機嫌を損ねないように必死だった。息の詰まる妙な間を置いて、吐き捨てるように女が言った。
「って言うかそっちはどんな人探してんの?」
「どんな人?」
 答えに詰まった。今すぐに会える人でマクドナルドの百円コーヒーを飲んだ後三千円くらいのレンタルルームかマンガ喫茶でただでセックスしてくれる人。と言いたい所だったが、そんな都合の良い女が存在しない事も経験上分かっていた。どんな人を探しているかなんて聞いて来る女は、百パーセント援助交際希望のテレクラ常連女だ。僕は、女の返事を予測しながら聞いた。
「逆にそっちはどんな人探してんの?」
「え、割り切りで会える人」
 一字一句予想通りの答え。僕は風船が萎むように落胆した。コンビニで金を下ろす手もあったが、パチンコで負けた上に、これ以上の出費は厳しい。次の給料日までは、まだかなり日があった。しかも、どんな女が来るのかも分からない状況で約束をするのは、危険が大き過ぎた。気が小さくて押しの弱い僕は、怪物のような女に会っても断り切れず、不相応な金を払ってしまう気がしたからだ。
「ふーん。そっか……。いくつなの?」
「二十九ぐらい?」
 自分の年に、ぐらい? はないだろう。この女は確実に三十オーバーだ。そう確信した僕は、少しだけ落ち着きを取り戻し、電話を早めに切り上げる事にした。確かこの店は、最初の電話を取った時間が、プレイ開始時間になる筈だ。そう思い出して個室のドア下を見ると、伝票が差し込まれていた。
「へー、じゃあ年近いね……。痩せた人が好きなんだけどどんな感じ?」
 そう言いながら伝票を拾い上げた時、叩き付けるように電話は切られた。
 まあいい。どうせ切ろうと思っていたし、流れから考えて、きっとデブだったのだろう。そう自分に言い聞かせながらも、僕は少しだけ凹んでいた。
 伝票に書き込まれた時間は、九時十七分。壁掛け時計の針は、九時二十五分を指していて、時間はまだ充分にあった。

 まともな人と、話がしたかった。
 次にかかって来た電話の相手は、『官僚や大企業の役員クラスの社会的地位の高い紳士っぽい人』を探している女で、多分テレクラにそんな人は来ないと思うと言った途端に電話を切られた。次の女は何を聞いても「は?」としか発音しない狂った人で、こちらから切った。その次の女はやたら声の可愛い五十代の女で、援助交際を希望していた。彼女によると、僕は最近の客の中ではかなり若いらしく、携帯サイト全盛の時代に態々こんな店を使うのは、携帯メールに付いて行けないおじさんばかりだと笑った。僕は、だいぶ余裕が出て来て、二十年前に会いたかったですね、と言って電話を切った。
 その後、十五分間、電話は沈黙を続けた。

 電話が鳴らないテレクラは、まるで刑務所のようだった。
 最初から期待していた訳ではないけれど、虚しさが込み上げて来た。時計を見ると、十時二分前。伝票の時間と見比べると、残り時間は十五分程だ。もし筋の良いコールがあったとしても、この短時間で何かを成すのは不可能だ。もしかすると、電話が鳴らないまま終了時間が来るかも知れない。そう考えた僕は、それならば、と立ち上がり、臭いスニーカーを引っ掛けた。
 フロント脇の棚には、一時代古いアダルトDVDがびっしりと並んでいた。二、三年前に人気があって僕もよくお世話になった単体女優物のビデオを借り、急ぎ足で部屋に戻った。デッキにディスクを飲み込ませ、スニーカーを脱ぎ捨てる。リクライニングチェアに横になってズボンを下ろした時、また電話が鳴った。
 間抜けな姿勢のまま、僕は電話をじっと見た。この手の店の店員は、こういう中途半端な時に限ってコールを回して来る。最後だ、と意気込んで話を盛り上げている内に、気が付くと延長時間に突入していて、まあいいや、これはいけると思った頃に、一方的に電話が切られる。かつて何度か同じ不幸を経験していた僕は、再生を始めたビデオをそのままに、赤いランプが点滅する受話器を取った。追加の金は、払わない。優先すべきは射精であり、会話ではなかった。
「フロントです。そのままの年齢でお話し下さい」
「はい」
 投げやりに答えた。左手で受話器を持ち、空いた右手でリモコンを操作した。公園でのどうでもいいイメージシーンが、倍速で早送りされて行く。
「もしもし、何してんの?」ハスキーで甘ったるい女の声が耳の穴に入り込んで来た。
「何って……、テレクラで電話に決まってんじゃん。そっちは?」
 期待を捨てた僕は、珍しく強気だった。
「テレクラに電話してる」
 そう言うと女は、妙に色っぽい声で笑った。鼻の穴と口から、半分ずつ息を吐くような、気怠気な笑い方だった。
「でしょ」
「はは。よくさあ、オナニーとかしながら電話してる人っているじゃん。あなたもそうかなぁって思って聞いてみたんだけど」
「はい? してないよ……」
 僕はぎょっとして、テレビの音量を絞った。早送り中の画面の中では、インタビューシーンが終わり、ありがちなオナニーシーンが始まっていた。
「まあ、いいけど。したかったらしてもいいよ。手伝ってあげよっか?」
作品名:骨まで愛して 作家名:新宿鮭