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ポケットの中に世界

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「にーちゃん、悪いけど火ぃ貸してくれないか」
 そいつに声掛けられた時には正直しまったな、と思ったよ。俺もその当時はそれなりに真っ当なサラリーマンやっててさ、俺なんかの世代はほら、バブルの頃の入社でさ、まあ俺は大してでかい企業っつー訳でもなかったけど、適当に就職して、まあ適当なとこで結婚とかして適当に定年まで勤めて、って、まあそういう普通っつーかさ、そういうまあ、安定した道っての?それに乗っかってて、この先も乗っかってることしか考えてなかったし、ホームレスとかさ、そういう人たちはね、単純に苦手だった訳よ。苦手っつーか、まあ視界にも入ってなかったんだけどね。
 うん、まあ見るからに路上生活者って感じだったね。髪も髭も伸ばしっ放しだったし歳はわかんないけど。で、恰好がスーツなんだよ。普通そういうおっさんってなんかさ、ジャンパーみたいなのとか着てんじゃん。でもスーツ。流石にネクタイはしてないんだけど、まあ3年前なら仕立ても趣味も悪くなかったんだろうなっていうような。いやその時にはもう汚れてるしぼろぼろだしで相当くたびれてはいたけどね。しかも左のポケットだけ何故か裏返ってて。そうそう、今の俺みたいな。まるっきりそんな感じ。場処もそう、此処で。
 そん時はさ、ちょうど帰りだったんだけど夕立で、まあ待ってりゃ少しはマシになるかと思って煙草喫いながらぼんやり立ってた訳。で、たまたま周りはあんま人いないしさ、いまいち逃げられないっつーか、ライター貸すぐらいならしょうがないかと思って貸した訳ね。で、まあそのオヤジは右のポケットからシケモク出してきて。ああ、俺ももう1度火、いいかな?悪いね、どうも。
 それでねえ、そこで逃げときゃよかったんだろうねえ。けどなんかいきなり離れてくのも不自然だしさ、オヤジそこで座り込んで喫ってるしさ、半分意地みたいな感じで俺もそこにいた訳よ。で、そうするとそいつのさ、左ポケットがどうにも気になってきて。や、きったねえ恰好なんだけどさ、一応スーツちゃんと着ててポケット片っぽ裏返ってんの、気にならない?で、思わず訊いちゃったんだよね。「ポケット裏返ってますけど?」って。
 で、オヤジがこっち見てさ。「これはいいんだよ」って。
 「このポケットには『世界』を入れてるんだ」ってさ、笑う訳。にやって。
作品名:ポケットの中に世界 作家名:シダタクマ