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子守

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 「姫水谷」。
 僕は、地図をためつすがめつ眺めた。どこの書店でも置いていそうな、単色刷りの地図。ざらざらとした手触りで、安い紙でできている事はすぐ知れた。
 その地図の掠れた印刷に、濃い鉛筆で丸が書かれている。
 「きすいこく」。「ひめみずだに」。もしくは「ひめみずのたに」?
 他の地名を幾つか見ると、どうやらここからそう遠くない。鉄道で二駅くらい西へ行ったところだ。
 ところが、僕はこの「姫水谷」という地名を聞いたことが無かった。
 他にも聞き覚えの無い地名が幾つかある。この地図は相当古いのだろう。文字や道を示す線もひどく掠れている。
 僕は地図を元通りにたたんで箱の底に仕舞った。地図と一緒に出てきた、数枚のラフスケッチは出しておこう。僕よりはるかに巧く、ラフでも充分に壁を飾る価値がある。
 次に空っぽのテレピンの壜。地図の上に壜を載せると、道が歪んで模様のように見えた。
 カラーチャート順に並べられた固形絵具を隣に。どうやら、これの前の持ち主は几帳面な性格のようだ。
 新雪のような、ホーロー敷きの鉄製パレットを上に載せ、筆が行儀よく納まった筒を隅に収める。
 筆だけは磨耗しており、買い換えねばならない。それでも、絵具はだいたい揃っているし、パレットも錆付いていない。箱のニスも落ち着いていて、黒っぽく光っている。中古品としては最高だと思う。これで僕に手の届く値段と言うのは、まさに掘り出し物だ。
 蓋を閉じると、ぱちんと可愛らしい音がして掛金が掛かった。鈍い真鍮の色をした掛金も、時を経てそれなりの威厳を持っているように見えた。
 古道具屋で手に入れたばかりの絵具箱。その表面を軽く撫でて部屋の隅に片付け、重い気分で振り返る。
 そこにはイーゼルがあり、スケッチブックが立てかけてある。かれこれ二週間はそのままにしてあると思う。イーゼルの縁に触れれば、指が真っ黒くなる事必至だ。
 締め切りまではまだ間があるが、着色を考えると、もうギリギリだ。それでもスケッチブックは、その白い顔にただ一筋の傷すらない。
 窓から西日が差している。僕は折りたたみ式の三脚椅子――野外スケッチ用に買った――に腰掛けた。手持ち無沙汰で、左手で鉛筆を玩ぶ。
 画用紙と睨みあったまま。こちこちと時計の針ばかりが休み無く働いている。西日は徐々に朱味を増し、スケッチブックの白皙の美貌を朱に染める。そのまま僕は微動だにしない。
 陽が落ち、部屋がすっかり暗くなっても、僕はそこを動けなかった。
 足元から冷気が忍び寄り、鉛筆を玩ぶ左手が動かない程冷え切って初めて、僕は鉛筆を置き、立ち上がった。椅子を片付け、机上の燭台に火を灯す。冷たいベッドに制服のまま、仰向けに倒れ、氷のようになった手で顔を覆った。
 描けない。どうしても、描けない。
 西日に沈むこの古い家など、絵としては良く映えると思う。近所の木立も、木漏れ日や落葉が奇麗だ。奇麗な黒髪の級友に、モデルになってもらおうとも思った。
 でも、何かが違う。描けない。描きたいのは、こんなものじゃない。
『真面目になりすぎるな。真面目さと几帳面さが、お前の絵の完成度を高めているのは確かだが、型にはまり過ぎるのは良くない。』
 分かっているんです、先生。
 でも僕には掴み所のないものは描けない。はっきりと確かに在る物だったら、描けるのに。
 でもそれは単なる写生だから。コンクールに、そんな薄っぺらなものは出せない、出したくない。
 一体、どうしたら……?
 手足の先とは対照的に火照った頬。頬に触れているうちに、ほのかに指先が柔らかくなってきた。
 寝返りを打つ。ベッドが冷たい。体温を奪われていくのが感じられる。
 闇に目が慣れ、ランプのほの暗い明かりの中でも、周囲のものがぼんやりと見えてきた。壁に白く浮かんでいるのは、もうとっくに日の過ぎた絵画展のポスターや、尊敬する画家の絵の模写など。
 黒くそびえる本棚には、本だけでなく雑貨やクレイ、画材が雑然と詰め込まれている。そのうちの何冊かの画集は、背表紙を見ただけで誰の画集か言い当てられた。
 隅の床に置いたこげ茶色の箱が、目を惹いた。ランプの明かりを受けて、一層赤く浮かび上がっている。例の、古道具屋で手に入れた絵具箱だ。
 ……そうだ。小さめのスケッチブック、イーゼル、さっきの三脚椅子に、この絵の具箱を持って、写生に出掛けようか。気分転換になるかもしれない。

   ○●○   ●○●   ○●○

 一旦そう思いつくと、僕は気もそぞろで何も手に付かなかった。勿論、学校に行ってさえも。
 僕は、美術室で一番日当たりの良い場所にイーゼルを立てた。画用紙のざらついた白い顔は、相変わらずだ。
「おいおい、授業サボってイーゼルと逢引かよ。」
 開けっ放しの美術準備室への扉のあたりから、声がした。
 驚いてそっちを見ると、よく知った友人が、扉に寄りかかるようにして立っている。
 一体、どう言い訳をしよう?
 しかし、よくよく見てみれば、彼の右手は、木炭で真っ黒に汚れていた。
「君も同じじゃないか。」
 我ながら、「ほっと息をつく」と言うには嫌味すぎる口調だった。当然、彼も眉をしかめている。
「お前よりは俺の方が、出席率は良い。先生だって見逃してくれるさ。」
「五十歩百歩って故事、知ってる?」
「俺が五十歩だからな。」
 僕は、さっきとは別のため息をつき、改めてイーゼルに向かった。
 彼はつかつかと歩み寄り、僕のスケッチブックをのぞきこむ。
「何だ、優等生、まだ真っ白じゃないか。」
「それ、嫌味?」
 彼は「勿論。」と肯いて、今度は僕の足元に視線を落とした。そして汚れていない方の手を軽く顎に当てて言った。
「下書きもできてないのか?」
 頬が引きつる。彼がにやりと笑い、得意げに腕を組んだ。
「いつもは下書きだの画集だのと、やたら床を散らかしながら描くだろう? それが今日はこの有様だ。こうしてみると、綺麗なもんだな、ここの床も。いつもこうしていてくれると、掃除当番としては助かるんだが。」
「うるさいな。かく言う君はどうなんだい?」
 一応、僕はそう切り返した。木炭で真っ黒になった彼の指を視界の端に捉えつつ。
「俺はまぁ、順調と言えば、順調だ。」
「それなら、是非見せて頂きたいものだね。」
 彼は少し難しい顔をしながらも、準備室からキャンバスを持ってきてくれた。僕は、白紙のスケッチブックを退かして、彼の絵をイーゼルに据える。
 ゆっくり、息をつく。彼の絵は、いつ見ても不思議だ。下書きですら、僕を魅了する。
 しかし、今回はいつもと違っていた。
「何これ。宗教画?」
「見りゃ分かるだろうが。」
 彼は渋面で、彼自身の絵を眺めやった。
 中央に、恭しく犠牲を捧げる司祭がいる。彼の周囲の蝋燭の灯っている部分と、その上、光の指す部分のみが明るい。他はほの暗く描かれている。
「古典的な構図だね。」
「そうか。」
「君らしくない。」
「放って置けよ。」
 彼は気の無い返事を繰り返した。その間も、彼の厳しい目線は、自身の作品に注がれている。
作品名:子守 作家名:一条 千智