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初恋の亡霊は静かに笑う

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 擦り切れたジーンズによれよれのTシャツがトレード・マークだった。ジーパンが擦り切れていたのはファッションなんかでよくある態(わざ)とのものではなく、本人がそればっかり穿いた結果の産物。だから擦り切れ方、破れ方はちっともかっこ良くなかった。冬はTシャツがトレーナーかセーターに代わる。その上に半天をひっかけてコタツで丸まっていた様は、どうにも売れない小説家っぽかった。ああ、これは小説家さんに対して失礼だな。
「それがあんなにこざっぱりしちゃって、なんだか別人に見えましたよ」
「残念?」
「そうでもないけど、隔世の感が。何年も経ったんだなぁって感じかな」
 自分の性癖を自覚するきっかけをくれたのは久坂だけど、懐かしいと思う以外、大した感慨もなかった…ように思う。結婚の話を聞いても、特に気にならなかったし。実際、暇つぶしに過去の恋愛談をぼたんさんに話すのでなければ、思い出しもしなかったろう。
 好きだったのは、あの時代の久坂だったんだ。俺の知っているのは、寮で一緒に過ごした三年間の久坂だけ。ズボラで、それでいて変に几帳面で、豪快に笑って、情に厚くて――傍にいて妙に安心できる。そんなあいつが好きだったんだ。
「環ちゃんは小汚いやさぐれ系が好みなのね、わかったわ」
 ぼたんさんの声。洗い物の手が知らずに止まっていた。いけない、『久坂知章学生編』を懐かしんでいるだなんて知られたら、これから先、からかいのネタにされるに決まっている。
「いや、そんなでもないですけど」
「私はね、初恋って幽霊になり易いものだと思うの。何だかんだで一生その人に取り付いていくのよ。新しい恋をすると、どこからともなく迷い出てきて、人の恋路を邪魔したがるの。結局、同じタイプを好きになってしまったりしてさ。だからきっと、またあの子と同じようなのと恋に落ちるのよん」
「初恋を幽霊に例えるなんて、文学的ですね?」
「文学部哲学専攻ですもの」
「え、体育大学じゃなかったんですか?」
「それは最初の勤め先。失礼しちゃうわ。筋肉馬鹿じゃなくってよ」
 初恋の幽霊…。
 じゃあ、俺も、六年前の久坂のことを何だかんだで想って行くんだろうか?
 あの時の、あの子供っぽいキスの感触を、時々思い出して、いつまでも忘れずにいるんだろうか?
「今、幽霊が出たでしょ? あの時のキス、思い出した?」
 ぼたんさんにはかなわない。さすがに人生経験が違う。だけど肯定するのはちょっと癪だから、言わずにおくさ。
「今夜は早く閉めるんじゃなかったんですか?」
「ああ、そうね。そろそろ閉める用意しましょうか」
と時計を見てぼたんさんが言ったところでドアが開いた。常連さんが顔を覗かせる。
 帰るモードに入っていたぼたんさんだけど、低音を甘く響かせて「いらっしゃいませ」と席を立った。『彼女』はバリトン歌手並の美声の持ち主なのだ。オネエ言葉が残念なくらいに。店の名前のヴォーチェ・ドルチェ=甘い声は、ぼたんさんの声から取ったんじゃないかな。
 一人、また一人と客が続く。低気圧は通り過ぎ、雨はすっかり上がっているのだろう。ぼたんさんは愛想の良い笑顔でテーブルを回り、俺はオーダー票を受け取って酒とチョコレートを揃える。
 久坂が座ったカウンターの席にも、別の人間が座った。
 そうして幽霊はどこかに引っ込んでしまい、ヴォーチェ・ドルチェの夜が過ぎて行く。