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無声

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ミキオさんを見ていると、わたしはなぜだかとても哀しくなる。
自我の始まりの記憶を持って人生とするならば、わたしはミキオさん以外の何者も知らない。ただ、わたしはここまで成長するまでに失った、欠落した記憶と人生をいとおしいとは思わない。知らないものを愛することは、影と空想を抱いて眠るような、骨を抱いて眠る哀しさがあって、だからわたしは生きた人間、ミキオさんだけを愛した。何も愛さないよりは、何かを愛しているほうが正しいような気がしたし、ミキオさんがそれを望んだからわたしはミキオさんを愛した。



わたしがミキオさんに拾われた夜のことを思い出すと、いつも目に浮かぶ景色があった。


夜の高速道路。濡れた窓ガラス。ゴムのワイパー。頑なな目をしてハンドルを握っていたミキオさん。その光景を思い出すと、わたしはいつもどうしてだか泣き出したくなって、ずんずんずんずん、体は重たくなって、このまま夜と一緒に溶けてしまえたら良いのに、と祈った。ミキオさんの乾いた肌に爪を立てるとき、わたしはいつも祈った。このまま、溶けて、死んでしまいたい。沈殿していくような夜の匂い。汗と体臭の匂いが残るシーツ。物が極端に少ない部屋の中に置かれた熱帯魚の水槽だけが、部屋を青く沈める。雨に濡れた窓を見上げるとき、わたしはいつも哀しくて、哀しくて、怖くてたまらなくなってしまう。夜がわたしに話しかける。お前はどうして健全でいられないのか、と夜の王がわたしの腕を取り、ぐぃっとその大きく暗く、清潔な夜をわたしに押し付け答えを求めるから、わたしはその王から逃げるようにミキオさんの背中ばかりを強く抱いた。


夜はわたしにとって万物の王だった。
そしてミキオさんはわたしにとってこの世の軸であり、神であった。



白んでいく空を見ながら泣いた。
そこにすら真理が生まれてしまうから、わたしはもがいた。
わたしは願わくは自分が哀れなプロレタリアであることを祈った。



 





ミキオさんは「仕事」へ行く。
パリッとしたスーツを着て、時々眼鏡をかけて、でも今日はコンタクトレンズをして、仕事へ行く。わたしはオレンジジュースを飲みながらミキオさんが支度する様子を眺める。ミキオさんは「僕はまだ二十代だよ」と困ったように笑うけれど、その猫背気味の背中は酷く疲れていて、力のある男の背中ではないように見える。でもみんなあんな背中をしているのかもしれない。分からない。


わたしは、ミキオさん以外の人間を知らない。


わたしとミキオさんが住んでいるのは、川が見えて、鉄橋が見えて、その上を電車が走っていくのが見えて、すぐ足元にパン屋と花屋と葬儀屋があって、それから少し遠くに中学校が見えて、小さな山―ミキオさんはどんぐり山と呼んでいるーの見えるベッドタウンにあるマンションだった。部屋は13階の398号室。ミキオさんは「さんきゅっぱごぉしつ」と呼ぶ、極端に物のない部屋。リビングにあるのは大きなソファーとガラスのテーブル。ミキオさんの部屋にあるのは白いシーツの大きなベッドにおおきなクッションがいくつも、それから難しい漢字の並ぶ大量の本。でも本は本棚に入っていないの。本は、足元とか、ベッドの下とか、洗濯物の上とか、どこにでもあるし、どこにでも積み上げられている。でもミキオさんはどの本がどこにあるのか全て把握しているそうだ。


「じゃあ、アメ、行ってくる。どこにも出ちゃ駄目だよ。君が外に出たら大騒ぎになるからさ。怖いところへ連れていかれるからね。じゃあ、僕はもう行くよ」


わたしはミキオさんの顔を見ない。
ミキオさんもそれを望んではいない。
彼は、わたしに何も望んではいない。


ぱたん、と扉が閉まり、途端、わたしは寂しくなって、ミキオさんと眠るベッドに潜り込んだ。ミキオさんの枕をこの腕いっぱいに抱きしめて、この肺いっぱいに吸い込む。満たされていく肺から二酸化炭素が漏れていくように、わたしはまた哀しくなる。哀しいことが多すぎると、窓の外から何かが入ってきて、わたしを抱いて、どこかへ浚って、哀しいのがわたしを見つけられないように、遠く、遠く、どこかへ捨ててきてくれたら良いのに、とよく空想した。わたしをここから浚ってくれるのは、なんだってよかった。銃を持った大男でも、空を飛ぶジンベエザメでもーこの間ミキオさんが図鑑を見せてくれて覚えたの。ミキオさんはよく覚えたね、と褒めてくれたー、それから牛でもスパイでもフラスコでもコーンフレークでも、なんでも良かった。とにかくわたしを堪らなくさせる、哀しいの、がわたしを見つけないようにしてくれれば、それで良かった。ミキオさんが奇術を使うとその、哀しいの、は遠くへ消えてしまう。痛い痛いの、も、哀しいの、も。



しばらくぼぅっとベッドで過ごし、それから今度はベランダへ出る。
カラカラと鳴る大きな窓はわたしの友達の一人。名前は、ジャンバルジャン。ミキオさんが教えてくれた、どこかの国の小説のタイトル。きっと彼も何かの王様に違いない。


ジャンバルジャンのベランダはわたしの王国。
ミキオさんが「おみやげ」にくれたプランターは今日も異常なし。ただの濡れた土。この間の夜食べた桃の芽はまだでない。あ、でもすごい事を発見しました。アリがいます。アリがいます。マンションの13階に、アリがいます。一匹です。黒々と濡れて、とても賢そうなアリです。頭の先にある「しょっかく」を揺らしてセンサー機能を発動させています。いや、レーダーかもしれません。きっと敵国のスパイに違いありません。

わたしはその賢そうなスパイを踏み潰そうかと思ったけれど、今日はジャンバルジャンの機嫌が良くないことを思い出して、このスパイと友達になろうと考えた。


台所から透明なグラスを持ってきて、アリことスパイこと未来の友達を指先に乗せて、グラスに落とした。ひんやりと冷たいグラスでは可哀想だ、と桃の種を植えてあるプランターから土を少し「しっけい」して、土を振りかけた。アリは戸惑ったようにグラスの中でもがいている。


わたしはアリの入ったグラスをベランダの手すりに置いて、自分も手すりに顎を乗せて、この小さく勇敢な新しい友に話しかけた。
作品名:無声 作家名:山田