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蜻蛉

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子供はゆっくりと流れていく時間を過ごす為の、不思議な秘法を持っているものだ。
 良雄も、大人達が墓参りに行き、誰も居なくなった祖母の住んでいた萱葺きの大屋根の下、一人、迷い込んできた蜻蛉を追った。蜻蛉は良雄の手の届かない、大黒柱の上のほう、仏壇の上、土間の天井のはりなどに、止まっては、ひうひうとまたべつのところへ移っていく。良雄は蜻蛉の後を追い、そのひうひうに見とれていた。
 昼を過ぎているというのに、大人達は帰ってこなかった。それでも、暗い萱葺きの大屋根の下、一人、良雄は蜻蛉を追い続けた。彼は空腹を感じることがあれば、大人達の残した煎餅や落花生でその腹を満たした。
 秋の午後、萱葺きの大屋根の下をひゅうと吹く風があった。蜻蛉は太い大黒柱からぱっと飛び立った。それは風に流され、庭の方まで飛んでいった。
 庭に流された蜻蛉は、ふっと空に舞い上がった。良雄はそれを追った。軒下まで走って、裸足で庭に飛び降りて。蜻蛉は実をいっぱいにつけた柿の木を越えて、ずっと、ずっと、遠くまで飛んでいってしまうまで。良雄は空のその一点を見つめていた。
 良雄は何も見えはしない、秋の晴れ上がった空をしばらく見つめてから、足元に転がっている水色の運動靴を履いた。
 蜻蛉を見失った今、良雄の不安定で落ちつかない視線が、大きな柿の木の後ろに何かをみつけた。それは彼にとって極めて奇妙なものだった。そこには青い絣の文様の着物を身につけた、彼と同じくらいの年頃の少年。柿の木の陰でじっとこちらを覗っていた。良雄が気付いたことを知ったのか、大木の陰からでてきた少年は、はじめは不安そうな顔をしていたが、良雄が笑いかけると、ニッコリ笑って、
「鬼はいないみたいだね」 
 絣の着物という姿、鬼がいるかと聞く、良雄はとても不思議に思った。
「鬼なんているわけないじゃないか」 
「それもそうだね」 
 今、良雄の前に立ったそれは見れば見るほど奇妙な格好だった。絣の着物に紺色の帯、しかもその着物のあちらこちらに点々と継ぎ当てががしてある。垢で汚れた草履は彼には少し大きすぎるらしく歩く度に草履が脱げそうになる。
「君、良雄君だね」 
 少年は良雄の名を知っていた。良雄はなぜかそのことを不思議に思わなかった。それは至極当然のことに思えた。
 少年はてれるような、おびえるような顔をしながら良雄を見つめていた。
「きみの名前はなんていうの、教えてよ」 
 少年は一瞬の躊躇の後、
「タロウ」 
 もぞもぞと呟く。
 良雄は少年の眼差しに、奇妙な何かを見つけた。それは懐かしい、見慣れた何かだった。
「家に来ないか、食うもんがいっぱいあるぜ」 
 良雄はタロウの手を掴んで、家の中につれて行こうとした。しかしタロウはその手を振りほどくと、門の外へと駆け出した。
 訳もわからず、良雄は少年の影を追った。
「何処に行くんだい」 
 息を切らし、半べそをかきながらも、良雄は蜻蛉を追った時のように走り続けた。その好奇と、孤独が、彼を走らせていた。
 ようやくタロウの背に手が届く位の所まで近づいた時、急にタロウは振り返った。
「池だよ、タガメがいるんだ、君はタガメなんか見たことなんかないんだろ」 
 また図星である。良雄は、団地生まれの団地育ち、生まれてこの方、野生のタガメなど見たことはなかった。いつもの鈍い足取りが、少し自分でも機敏になったような気がした。
 門を出て、左に曲がり、そのまま道なりに切通しを抜け、畑の畦を越えて、林を突っ切った。そして道が行きどまると池があった。大きく青い池があった。二人はそのまま崖をすべりおりた。
 タロウは、良雄の手を引いて、葦のしげみの中に入っていく。枯れた葦が積もった地面はスカスカで、濡れたスポンジの上を歩いているかのように、良雄の運動靴の底を濡らした。
 しばらく歩くと、ようやくその池の水面が見えた。葦は、澄んだ水面から柱となってつきだし、少年達の頭の遥か上まで伸びて、天空を支えていた。
 良雄は葦の根元の枯れた水草の一つ一つにタガメの姿を探した。
「そんなとこじゃないよ、ここだよ。ここ」 
 タロウは、水中の一点を指差した。そこには、一枚の大きな枯れ葉がまわりの落ち葉達にまぎれて、ひっそりと獲物を待っていた。そのカマ、その目、良雄はじっとみつめていた。
 そのとき、小鮒が一匹、枯れ葉の前を通った。
「食うぞ」 
 タロウがいった瞬間、ぱっと枯れ葉がカマをのばしたかと思うと、小鮒は腹の皮を突き破られてた。それはカマから逃れようと、体を激しくくねらせた。しかしそれも枯れ葉がくちばしを突き刺すと、次第に力が抜けて行った。
「吸血鬼だね」 
 良雄はそう呟いた。
 その後二人は、池のまわりをあちこち走り回った。流れ込む小川のせせらぎや、鋭く落ち込んだ深みの緑を、タロウは一つ一つ良雄に教えていった。そこには、タイコウチ、クチボソ、それにダボハゼといった見慣れた生き物に混じって、タガメやゲンゴロウ、ミズカマキリやニゴイ、そういった彼には縁の無い虫や魚達が泳ぎまわっていた。
 この池の力に彼は酔っていた。
 しかし、その酔いも空腹という物理的な現象によって打ち砕かれつつあった。それを何処で悟ったのだろう、タロウが、
「俺んち、行こ。腹、減ったんだろう」
 そう言うと、良雄の手を掴んで、池の後ろの土手を登り始めた。いつの間にか太陽の光がオレンジ色に変わって、走る良雄の頬を照らしていた。蟋蟀の音もまた良雄の耳を捉える。涼しい。
「蟋蟀だね」 
「エンマだ」 
 良雄と少年は呟きあった。タロウは足元の黒い虫を拾い上げた。
「ほら」 
 そう言うと、彼は捕まえた虫を良雄に見せた。虫はタロウの手から逃れようともがいた。
「知ってるよ、それ、共食いする虫だろ」 
 良雄は蟋蟀をじっと見つめた。
「捨てちゃえよ、そんな虫」 
「うん」 
 そう言うと、タロウは手の中の虫を思いっきり林の中に投げ込んだ。
 そのまま丘を登りつめ、林を抜けた、良雄がこれまで来たこともないようなところにタロウの家はあった。大きな門をくぐって庭にはいると、そこは萱葺きの大屋根があった。良雄はタロウに導かれるまま家の中に入った。
 すすけた天井、暗い土間、鈍く光る大黒柱。家に良雄は圧倒された。
「誰も居ないの」 
 良雄は震えながら尋ねた。
「そうだよ」 
 そう言うとタロウは台所から取って来た落花生を、良雄に手渡した。乾ききった落花生を割ると、中から萎びて短い棒のようになった落花生の実がでてきた。良雄はそれをつまんで口の中に入れた。味らしい味は何もしなかった。ただ酸化しかかった脂肪特有のすっぱい匂いだけが口の中に広がった。
「帰りたいな」 
 良雄がそういったことには特に理由はなかった、ただ自分はここにいてはならないと言うような気がしただけだ。黒く光る大黒柱も、屋根から吊るされた大根の干物も、線香の消えかけた仏壇も、どれもこれも枯れの存在を許しているようには思えなかった。ここにいてはならない、それらのものはそう語っていた。
「ダメだよ」 
 タロウの厳しい声が、良雄の耳から心までを引き裂いた。
「君は帰ってはいけないんだ」 
作品名:蜻蛉 作家名:橋本 直