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水葬と手紙

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あれは私が二十四、五で、まだ水葬が当たり前のように行われていたころですから、今から五十余年も前の話です。
 私がいつものように郵便物の配達をしていたとき、ある家の前に、十六、七の少女が立っておりました。その家では、少し前に事故で二人の死人が出ていたのを私は知っていましたので、その少女が取り残されてしまったのだろうとすぐに分かりました。その日は、彼女の家宛に手紙がありましたので、家の前にあるポストの前に立てば、ざっと十日分は新聞が詰まっており、ほかにも様々な郵便物であふれていたものですから、どうしたものかと考えあぐねているところに、少女は私の横に立って、小さな便箋を一つ、私に差し出してきたのです。
 便箋は真っ白で、切手もなく、宛名すら書かれておりませんでした。私は、
「誰に宛ててだい?」
と、問いました。少女は私のほうを向いて―――しかし、その目は私ではなく中空を虚ろに見つめたまま、
「誰にでもないわ。……貴方でも、貴方の大切な人でも、私に関係のない、私を知らない人でも、読めるわ。誰に宛ててでもないから、誰にでも読めるのよ」
と、言いますので、私はついその便箋を開けて、中の手紙を読んだのです。
 その手紙も便箋と同じく真っ白で、その真ん中に、
「さよなら」
と、一段変わって、
「水の中には、何もないわ」
と書かれていたのです。
「―――」
 私は、声もなくこの子が死に望んでいることが解りました。
 あの頃の水葬は川で行われていて、死体は流されて川下にある湖の底に沈んでいきました。―――彼女がそこに行きたいのかどうかということは解りませんでしたが、とにかく、彼女が死に望んでいるということだけは根拠もなく確信しており、辞(と)めようもないと思っておりました。
 そうして、しばらくの間、その手紙を見つめておりますと、
「私は、水の中は嫌いよ」
と、少女が呟くように言いました。
 それで私は自分に戻って、配達予定に半刻も遅れを作ってしまったことに気がつきました。
 まだ若く、仕事のヘマを誤魔化せる力量もなかった私は、「仕事があるから」と言って、あわててそこから走り出しました。
 そんな私に、彼女は後ろから、
「でも、死ぬのなら、……水の中はどんなに綺麗かしら」

 半刻遅れた配達時間を取り戻そうと、私は躍起になって仕事をこなしましたが、結局その半分も取り戻すことができず、遅れた時間は何をしていたのだと上司から手酷く叱られ、沈んだ気持ちで帰路につこうとしたときに、ふと彼女の顔が思い浮かびました。
 ポケットには彼女から受け取った手紙が入れたままでした。私は自分の机から真っ白い紙を探し出して、ペンで言葉を書き、彼女から受け取った便箋から彼女の手紙を抜き取り、自分の書いた手紙を入れて、彼女の元へ向かいました。
 そのとき、すでに彼女はこの世から去ってしまったのではないか、という考えは不思議と私には考え及びませんでした。これもまた、彼女の死を確信したのと同じ感覚でした。

 彼女の家に着くと、彼女は先と同じように立っておりました。
 もう時刻も夕方で、呉れ泥んで仄暗い辺りから切り離されたように凛とした佇まいであるにもかかわらず、彼女の姿が一番暗く感じられました。
 そんな彼女は、私に気づいて、
「何か忘れ物かしら?」
と、一瞥することもなく言いました。
 私はそんな彼女に、先ほどの真っ白い便箋を差し出して、
「ええ、貴方への手紙を忘れていました。どうも申し訳ない」
と言いました。
「私に?」
 少女は訝しげに言いました。しかしそれでも私に視線を向けることはありませんでした。ただ機械的に腕を上げて私の手にある便箋を取り、同じく機械的にそれを開いて、中の手紙を取り出しました。
 真っ白い紙には私の書きなぐりの字で、
「水槽には花束を」
と、
「ただ貴方が綺麗に眠れるように」
と書かれていました。
 彼女はそこで初めて私の顔へ視線を向けました。
 もちろん、私が正面から彼女の顔を見たのも、このときが初めてです。
 真っ黒で、艶を持っていただろう髪は、ところどころに枝毛が目立ち、肩のあたりでそろえられていただろうか。しかし今では不揃いで、乾いた海草のようでありました。
 乾いた唇は、数箇所に切れ目が入っていて、頬もまたカサカサと音を立てそうなくらいに乾き、目の下にはくっきりと黒い模様が浮かんでいました。
 しかし。それでもなお、彼女を美しいと思ったのは、幻覚ではなかったと思います。
 不謹慎ではありますが、死に行くものには魔性が宿るのです。
 彼女の美しさはその類でした。
 顔を向けた彼女は、少し戸惑っているようにも見えました。
 しかし、その口がゆっくりと微笑を浮かべていくのを、今でもはっきりと思い出せます。その微笑を保ったまま、
「ありがとう」
と、私に言いました。
 その声は今まで聞いた彼女の声とは、また別に聞こえました。
 彼女が何を思って私に礼を言ったのか、それは解りません。
 私自身、死に行くものに何もできないというのはあまりに虚しいではないか、と思ってあの手紙を書いたに過ぎません。
 ……こうしていくつも述べましたが、今では言い訳のようです。私は、確かにあの時、彼女に見蕩れていました。
 彼女が私の横を通り過ぎるまで、何かを思ったと言う記憶がないのです。
 あるのは、ただただ彼女の微笑んだ顔だけなのです。

 彼女が去った後、私はもう何もできはしないと思い、とぼとぼと帰路に着きました。
 早ければ、明日、明後日にでも彼女は見つかるだろう。―――もちろん、そのとき彼女は違う彼女であるだろう。と考えていたのは覚えています。
 家に帰って、床に就いてからも彼女が気になりました。しかし、あの微笑がふと思い浮かばれて、私はすぐに安心して寝入ってしまいました。

 翌朝。
 私はいつもどおりに配達をしておりました。
 すると川のほうでなにやら騒ぎが起こっているのか、人だかりができていました。
 それを遠巻きに眺めていた四十半ばほどの男性―――そのお方は一昨年に亡くなったのですが―――に話を訊けば、
「二週間くらい前の事故で両親を亡くした女の子が水死しとるんだとよ。何でも川上のほうでその子の靴と遺書が見つかったらしい」
 そのお方は丁寧に事を言い聞かせてくれました。私は、
「それはまた、難儀なことですね」
とだけいい、男性に礼を言って配達に戻りました。
 彼女の死体を見ようかと、迷わなかったと言えば嘘になるでしょう。むしろ私は見たかったと思います。それでも私が彼女を見なかったのは、彼女を美しいままで記憶に残したかったのか。それとも、ほかに何か理由があったのかもしれませんが、今では―――いえ、今でも曖昧なままです。
 配達を終えて、私は山に分け入って、野草の花をめいっぱい摘んで、真っ白い包み紙で包んで花束を作りました。
 先日彼女と別れた頃と同じ時間帯でしたから、もう彼女は湖に沈んだ頃でした。
 私はのろのろと湖へ向かい、日がなくなった頃に湖に着きました。松明を持ってきていたので、火の灯りが虫を引き寄せて、持っていた右手は虫刺されだらけになったのですが、あの時の私には何の障害にも成り得ませんでした。
作品名:水葬と手紙 作家名:まーす。