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怪盗・仮初非力の結婚

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「開幕だ!」
 小さな町――平凡な人々が生活を営む、平和な町。その中でも一際目立つ時計台の上に、その人間は立っていた。暗闇の中寝静まった町を見下ろしながら、月光に照らされたそいつは、不敵に笑った。
「さあ出て来い名探偵……、私を捕まえてみろ」
 その人影は長く伸び、鋭く光る視線は、町のある一点を射抜いている。その目線の先には、一つの事務所があった――。

 相変わらず、覆水(ふくみず)は長いすに寝そべっている。普通のサラリーマンならとっくに出社し、あくせく働いているような時間帯だというのに、我が事務所の主、覆水再起(さいき)は、今日も今日とて、寝転がっている。――何という怠惰。
「おい起きろ。そして少しは働け、再起」
 私は彼の、青いスーツに包まれた脛を蹴飛ばす。
「むぐ……、何するんです、美寿寿(みすず)さん」
「何するも何も。怠け者の名探偵殿を起こそうと思っただけだ。見ろ、彼女は既に額に汗を浮かべて働いているぞ。私だって、事務所内の掃除からHPの管理まで、大体は終わらせた。もうそろそろ正午になる。そうだな、あんたには昼ごはんでも作ってもらおうか」
 私は、それこそサラリーマンの見本のように汗水たらして働いている彼の助手を指差し、再起の腹の上に腰掛けながら言った。再起はうぐう、とくぐもった声を鳴らすが、抵抗はしない。ただ、不服そうに私を見ていた。
「それにしても美寿寿さん、あなたどうしてここにいるんでしたっけ」
「あんたにそんなことを言われるとは思わなかったよ」
 私は呆れ半分苛立ち半分で、再起の頭を小突く。
「覆水先生、もうお忘れになったんですか」
 私の代わりに再起の質問に答えようとしているのは、彼の助手の女性。名前は聞いていないから知らないが、長い髪の持ち主で、いつもそれを少女のように二つに結んでいる。がしかし、彼女は、可愛らしさとは無縁の顔立ちをしている。きりりと結ばれた口元は意思の強さを表しているし、まっすぐな目線は素直さを感じさせる。ただこの人に欠点があるとすれば、覆水再起などという人間を心の底から敬愛していて、かつ尊敬してしまっているという点であろう。覆水は正に見目麗しい詐欺師といった風情の男なのであるが、彼女はそれに騙されたのだ、きっと。
「この間、第44次不再間戦争の際、先生は先永(さきなが)さんに匿っていただきました。そのお礼として、屋敷を失った先永さんに、住居と職場を提供することにしたのは先生ご自身じゃないですか」
「そうだったっけ……」
 覆水はぽりぽりと頬を掻いた。どうやら、本当に忘れているようだ。まあ、確かに私は、彼を匿ったと言っても、その後すぐに裏切ったわけだし。
「……と。おい、その第なんたら戦争というのは何だ? 私は初耳だが」
 私が聞くと、次は覆水が、苦しげな声で答えた。
「第44次不再間戦争。私の妹・不起(ふき)と、私再起との戦争のことですよ。まあ手っ取り早く言ってしまえば、ただの兄妹喧嘩なんですけどね」
「ああ、そういうことか。なんだ、随分大それたネーミングを付けたものだな」
「そういう文句なら、始起(しき)兄さんに言ってやって欲しいものですね。私と不起の兄妹喧嘩に、そういう名前をつけたのは彼ですから」
「始起兄さん?」
 私は、首をかしげた。まだ彼らには兄弟がいたのか。それも、初耳だ。……まあ、ここに来て日の浅い私にとっては、ほとんど全てのことが初耳と言っても過言ではないのだが。いや、過言か?
「ええ、始起兄さん。私たちは、三人兄弟なのですよ」
「そいつも、お前達みたいな変人なのか?」
「失礼なことを平気な顔して言いますよね、美寿寿さんは。安心してください、始起兄さんは、まともな人ですから」
「しかしお前に言われても信用できないな」
「それまた失礼なことを……。少なくとも、始起兄さんはあの、なんて云いましたっけ、彼女――千年(ちとせ)さんよりは、まともですよ」
 その台詞を聞いて、私は一瞬にして腸が煮えくり返った。――こいつ、千年のことをまともじゃないと言いやがった。まあ確かに立派にまともというわけではないかもしれないが、あの娘は、私の従妹だ、親類だ。こいつにとやかく言われる筋はない。
 そう考え、私は既に私の尻の下に敷かれている名探偵の、細い腕を捻ってやった。
「ちょっ、美寿寿さん、あなた何していてててててっ!」
「お前が余計なことを言うからだ」
 名探偵は顔を思い切り歪め、泣き出しそうな表情だ。だが、それでも私に仕返しをすることはない。――非力な奴だ。
「ちょっとお二人とも、良いですか」
 険悪にじゃれあう私たちに、女性が声をかけた。
「ん、何だ」
「このネット記事、見てください」
 女性がパソコンの画面を指差すので、私と覆水は立ち上がって、そちらへ歩いた。女性のほっそりとした指先が示しているのは、ニュースサイトに投稿された、一つの記事であった。
「どれどれ――」
 覆水が覗き込み、朗々と読み上げる。
「『熒熒(けいけい)町内の皆様、御機嫌よう。/私はこの小さく美しい平和な町をかき乱すという、使命を負った者である。/その手段については、この町の財産を我が手に収め、然るべき処置を施すというものに限定する。/私を捕らえたくば捕らえてみよ。/もとより、無能な警察どもに期待はしていない。/私は、私を捕らえられる可能性を持つものを、一人だけ知っている。/名探偵・覆水再起/私はお前に捕らえられるなら本望である。/では皆々様、今日のところはこれにて失礼致す。/怪盗・仮初非力(かりそめ ひりき)』……なんだこれは」
 覆水は読み終え、首を振った。そして、再び同じ台詞を、丁寧に言いなおした。
「何ですかこれは」
「そのままの意味だろう、再起よ」
 私は、どうやら動転したらしい再起に、そう言った。再起はもう一度目を凝らして画面を見つめていたが、何度見直しても文面は変わらない。やがて諦め、また長いすにいそいそと戻っていった。
「覆水先生、宜しいのですか?」
 女性がその背中に問うが、当の名探偵は「むー」とか「うー」とか唸るだけで芳しい答えは返ってこない。
「おい再起、これは面白い話だぞ。名探偵に怪盗、あとはこれに事件が起きれば最高に面白くなる」
「面白くもなんともありませんよ、美寿寿さん」
 再起は再び長いすに身を横たえ、天井を見つめながら言った。
「事件なんて起きない方が良いんです。平和を乱すと公言するような奴の挑発に乗る気はありませんよ」
「でも、事件が起きたら捜査するんだろう?」
「依頼はどこからも来ていませんからね……。私が独自に動いたって仕方ありません。報酬もありませんし」
「でも、犯人逮捕に貢献すれば、栄誉賞くらいは貰えるかもしれないぞ」
「そんなもんいりませんよ」
 冷ややかな名探偵の言葉に、私は驚く。
「あんた、じゃあ何のために探偵なんてやってるんだ?」
「探偵じゃない、名探偵ですよ。――私は、平和を維持したいんです。だから、もしその怪盗何とやらさんが本気で事件を起こそうという気なら、……全力で阻止します」
 名探偵・覆水再起は、真剣な眼差しで虚空を睨んでいた。
「…………」
作品名:怪盗・仮初非力の結婚 作家名:tei