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愚者と妖精についての小話

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彼よりも大事でない全てのもの


 夕暮れがひどく赤かった。焼けつく瞳など存しないにも関わらず、首なしの女は左の手をかざす。右の手は不自由であった、白衣を日暮れに染めた男の左手が、彼女の右の手を拘束していた。意志さえあれば振り解ける柔らかさは、しかし離さない意志が強固に滲む、無言のまま男は日暮れる太陽に向かって歩き続けて、女は手をひかれるがままに背中を追っていた、目的地など知れなかった、ただ、ただ、あるいは逃げるように、歩き続けているのだった。日々喧騒にまみれた街が、特に騒々しい、人ごみの間を潜り抜けて、男は女の手を離さない。
 きっかけは強い地震であった。机に置いたカップが落ちてコーヒーが飛び散る、かん高く響いた音をきっかけに、男は女の細い腕を掴んで家を飛び出した。男の確固たる足取りに、避難や、救護や、災害に際する諸々の目的意識は皆無であった、対して首の無いなりに心を有する女は街の友人を思っていたが、有無を言わせぬ男の手引きに、諾々として従ったのだ、止まったエレベーターは捨て置いて、階段によって地上に降りる、それきりずっと歩いている。辿り着く場所など当て所ない。
 震度の分からぬ強さの地揺れは、建物から人を追い出し、道は混雑を極めている。信号一つの故障で車路は渋滞、クラクションと排気ガス、都市は脆弱だ。人ごみと土煙、携帯電話を見つめる人々、会話、電子音の旋律、感覚は過多な情報を排して受け入れ、揺らぎそうになる足並み、しかし男はいつになく強引であった、白衣の背中は、波にのまれず、裏通り、細道、器用に白い裾が舞って、こんなにも広い背中であったかと、女は感心したものだ。男が喋らず、首なしはもとより口なしである、喧騒一入の街の中、二人だけは静寂であった。
 もう幾つの路地を曲がっただろうか、人もまばらに撒いた通りで、唐突に鳴った携帯端末の合成音、女は袖口から機器を取り出す、すぐに切れた着信音に、履歴を見ると、気付かなかったのであろうか、十を超える名前がずらり並んでいた、それ全て地震によっての被害であろうか、建物が壊れない程度であっても地震は地震、女を頼って助けを求めているのだろうか。自然女の足は止まる、速度を失った右手が、男の歩みを妨げ、俯いたまま歩みを止めた、茫洋と立ち尽くす恋人たち、太陽は二人を待たずに沈んでいく、
「行かなくても、良いじゃないか」
 闇医者の手は繊細であった、大きく女の腕を包み込んではいるものの、感傷的に強張っていた、微かな震えが、先ほど体験した地揺れよりも大きく感ぜられて、女は咄嗟に端末を袖口に隠す。彼について行かねばならなかった。何を差し置いても、今の首なしの女にとって、男より大事なものなんて存在しなかった。