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タジオ幻想

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タジオ幻想 
                 



「ここなら、条件にぴったりでしょう?」
 表情の読めない無愛想な織部だが、声音には何かしら得意げなものが含まれていた。垣内は盛大にため息をついて見せる。
 確かに、鄙びた山奥の隠れ家的宿が良いと言ったのは垣内だ。天然かけ流しの温泉で、清流に面した露天風呂もあって、古の文豪が篭って執筆したような風情ある二間続きの和室に、山の幸ふんだんの美味い郷土料理、加えて『目の保養付き』――垣内の場合、「美」と付く青少年のことだが――なら書けるかも知れないと。
 但しそれらは実現しないことを前提に出した条件だった。誰も次回作を期待していない、すっかり忘れ去られた感のある純文学作家に、そんな好条件の執筆場所を用意してやろうなどと、昨今の活字離れの傾向にますます営利主義に走る出版社が思うはずがない。新作の書き上がる保障がないなら尚更に。
――まさか、本当に用意しやがるとは。
 宿と温泉はともかく、目の保養はいくらなんでも無理だろうと思っていたらば、宛がわれた部屋の係は女性ではなく爽やかな青年だった。際立ったとは言いがたいが、観賞には充分耐えうる容姿で感じも良い。韓国の何とかと言う俳優に少し似ていることもあり、辺鄙なところにある温泉宿にも関わらず、女性客のリピーターが多いのだそうだ。
 垣内は張り出し窓に腰を掛けて、残雪が美しい山また山の風景を一瞥し、織部を振り返る。彼は『目の保養』的部屋係が淹れてくれた熱い日本茶をすすっていた。
「はあ」
 垣内はもう一度、聞こえよがしにため息をついた。織部は垣内を見たが、相変わらずの仏頂面で何もコメントしなかった。




 好きな時間に起きて露天風呂にゆっくり浸かり、部屋でとる遅い朝食の後は周辺を散策する。小さな山間(やまあい)の温泉地では、見るものもすることも限られていた。自分で出した条件通りの場所ではあったが、都会で利便性の高い生活に慣れきっている垣内は、滞在三日ですることがなくなり、五日目には退屈しきっていた。かと言って原稿用のノート・パソコンが乗ったレトロな文机の前に座る気にはなれなかった。
 垣内は純文学系と官能・娯楽系の二つのペンネームを持つ小説家である。もともとは官能小説家だったが、ここ数年の創作活動の主軸は前者なので今は書いていない。ただ純文学としてカテゴライズされている著作は、合わせても一冊に編めない掌編数作と、長編が一作。予定された長編二作目の原稿用紙はいまだに白紙状態で、つまりは長いスランプの中にいる。細々と垣内の生活を支えているのは、純文学としての一作が出るまで書いていた官能小説の印税収入と、時折入るエッセイの仕事のみと言うのが現状だった。
 織部は垣内が官能小説家として仕事をしていた頃の担当編集者だった。今と変わらず無口で、原稿を催促する時も他の出版社の担当とは違い、書きあがるまで黙っておとなしく待っていた。同じ年だったこともあって最初は御しやすいと見た垣内だったが、その印象は長く続かない。えも言われぬ威圧感を受けるようになったからだ。手を抜いて単調になっていたり、擬音に頼ってばかりすると的確に指摘する。それがどんなに過激な濡れ場でも、顔色一つ変えず音読するのだからたまらない。
「どんな羞恥プレイだよ。恥ずかしくないのか?」
「恥ずかしいのは先生でしょう? いい加減に書いた文章だから、聞いていて恥ずかしくなる。いくらフィクションでも、こんなに喘がせっぱなしじゃ読者も疲れますよ」
 普段は口数が少ないくせに、指摘する時は容赦なく饒舌だった。そして文章を見る確かな目を持っていて、垣内が女性に興味がない性質(たち)だとも、それで知れた。
「先生の書く女性像はステレオ・タイプ過ぎますからね。色っぽいようで色っぽくないし。相手の男の方がよっぽどエロい」
――織部、侮りがたし。
 ゲイであることを隠しているわけではなかったが、一事が万事、その調子で見透かされるのは癪に障る。以来、織部が文芸誌に移り担当を外れるまで、垣内は締め切りを破ることも手を抜くこともなかった。思えば、織部に乗せられていたのかも知れない。
 実は垣内を純文学のジャンルに引きずり込んだのは織部である。彼が担当する文芸誌の代替掌編を引き受けたのがきっかけだった。それが予想外な高評を得て、続けて二本ほど掌編を書いた後、
「女を巧く書けないんじゃ、官能・娯楽小説家として先は知れてる。すでに飽きられているのはわかっているはずです。先生の文章はこのジャンルに向いていない。本来の、書くべきものを書くべきだ」
と珍しく熱心な織部の勧めもあって長編を仕上げた。五年以上前の話である。しかし一種の燃え尽き症候群に陥ってしまったのか、次のプロットが浮かばない。同時にもともと得意ではなかった男女の色事の書き方を忘れてしまって、官能・娯楽小説の世界にも戻れなくなってしまった。今では垣内に原稿を依頼する奇特な出版社は、織部のところくらいになっている。エッセイの仕事も彼が持ってくるものだった。
 多分、それも織部の強い押しがあってのことで、上層部の渋い顔が想像出来た。織部は垣内を、そこそこ食べられた官能小説のジャンルから、貯金と印税を食いつぶす純文学へと引きずり込んだことに責任を感じているのだ。そしてまだ信じている。垣内の二作目を。
――それとも、俺に気があるのか?
 今回の宿の払いも、織部が自腹を切っていることはわかっていた。一番ではないにしろ、それなりの部屋への長逗留は結構な出費になる。書けるかどうかわからない落ち目作家のわがままにつきあって、無駄金を使う酔狂な人間がどこにいるだろう。実際、彼の目をそう感じたことは一度や二度ではなかった。
――だけど、秋波ってほどじゃないんだよな。それに…。
 と朝食の膳を下げに来た部屋係を一瞥する。
 いくら本人の希望だからと言って、好きな相手のために目の保養を用意するだろうか。もしかしたら『目の保養』のままで済まないかも知れない。垣内が身持ちの堅い方ではないことを織部も知っているはずだ。
――あいつはどうにも読めない。同類の匂いもしないし。
 妙な気があるのではないとしたら、純粋に作家としての垣内を織部は欲していることになる。垣内の二作目をこれからも我慢強く待つと言う表れだ。
 条件を出した手前、後には引けなくなったから来てしまった垣内だが、理想的な場所を、期限を切らずに提供されたことと、それにも関わらず一向に書く気が湧き上らない現実が、心に重く圧し掛かった。このまま黙って帰ってしまおうかとさえ思う。そうすればさすがの織部も呆れて見限るだろう。もう彼が垣内の元に足を運ぶことも、あの仏頂面を見ることもない。清々するはずなのに、思うばかりで実行に移せない垣内であった。
「どうかなさいましたか?」
 ぼんやりとあれこれ考えていた垣内の視線は、部屋係の青年・市川に留まったままだったらしい。「退屈」と垣内が一言で答えると市川は破顔した。
「御神体の森には行かれましたか? 千年楠は一見の価値ありです」
「二日目に行ったさ。ここの一番最古の温泉とやらにも入ったし」
作品名:タジオ幻想 作家名:紙森けい