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タイムアップ




「好きだよ」
「そりゃどうも」

大学の講義が早く終わった事で俺は浮き足立っていた。肩からかける鞄も何時もと同じ教材が入っているというのに軽く感じられる。携帯を確認する事もなく家路を急ぐ。今日は弟の幽が数ヶ月ぶりに帰ってくるから、家族四人で食事に行くことになっていた。鼻唄でも歌い出しそうなくらいに上機嫌な俺は、校門を出た辺りでこちらに走ってくる黒い車に眼を留める。急にスピードを落としたのに止まる様子が無い車、不審がる暇もなく後部座席の窓が開きそこから男が一人軽やかに手を上げた。

「やあ、今日も良い天気だね」

死ぬほど見覚えがある男に一気に気分が下落した。

「そうか? 俺の天気は大雨洪水警報が鳴り響いて、しかも槍が降ってる」

引き攣った笑みで誤魔化し逃げようと足を速める。だが男は車から降りると素早く俺の手を掴んで引き止める。面倒臭さから胃に石が落ちてきたような気分になっていると、突然後ろから抱きつかれた。

「っ阿呆か! 誰かに見られたらどうすんだ!」

昼下がりの大学の傍、お世辞にも無人とはいえないその場所で若い男二人が絡み合っているのを見られればそれはそれは俺にとって不愉快な噂が流れるに違いない。だが今の俺の焦燥はそこじゃなかった。こいつがただの変態ならこのまま背負い投げよろしく投げ飛ばせば事足りるんだが、忌々しい事にこいつは一般人じゃない。

「あー」

事態を理解したらしい男は少しだけ顔を浮かせるが、本当に一瞬で顔を戻して俺の背に押し付ける。

「別に良いよ」
「良くねえ全然良くねえ。誌面を賑わすトップモデルが白昼堂々、男にセクハラしてンじゃねえよ」
「スキンシップだからセクハラになんか入らないよ? シズちゃん」

肩越しに覗いた顔は視線を合わせるとにっこりと顔を歪める。本人にとってはまるで天使のような笑みなのだろうが、俺には性悪な下衆にしか映らない。辺りに注意を払い、女子が沸いてこないうちに引き剥がす。現在、注目度が急激に上がってきたモデル、折原臨也は名残惜しげに離れるがすぐに腕に縋り付いてきた。

「撮られたらどーすんだよ!」
「一般人のシズちゃんと一緒だからぁ、肖像権で訴えます! 事務所通して頂戴! って叫べば良い?」
「そんなもん、一般人の顔隠して報道するに決まってんだろ!」
「じゃあ問題無いね」
「有りまくりだ!」
「えー」

文句を垂れ流すこいつを引き摺って未だ待機していた黒塗りの車に押し込んで自分も乗り込む。冒頭の流れから今此処に来ている。

「きゃー積極的ー。シズちゃん好きだよ、付き合って」
「言ってろ」
「イってろ? 熱烈なお誘いだね、痺れちゃうよ。お誘いついでに一緒に夕食でもどう?」
「頭が逝ってんだよ」

とりあえず周囲の眼を気にしなくて良い事にほっと息を吐き、何故か隣ではしゃいで好きだ好きだと連呼している男に項垂れた。
何で俺みたいな極々普通の人間が雑誌やブラウン管越しじゃないとお眼にかかれない有名人と口を利けるのかといえば、かなり前に話が遡る。俳優である弟と撮影で共演した臨也は顔合わせも兼ねて飲食店に入り、何も知らない俺が偶然近くを通った為に幽に「兄さんもどう?」と誘われ、久しぶりに弟に会えるとのこのこ現れた。見知らぬ他人が相席しているなんて聞かされていなかったから驚いたのだが、テレビが嫌いでそちらの世界に疎い俺は臨也を友人か誰かだろうと解釈して特に気にしなかった。
その時の事は酔った所為でよく覚えていないんだが、数日後、何時の間にか携帯に登録さ(せら)れていた電話番号から一緒に飲まないかと誘われた。有名人である臨也の正体を知った俺は恐れ多いと断り続けたんだが結局根負けして何度か酒に付き合う内に、何故か何度も告白されるようになっていた。

「あのな、臨也。お前も俺も良い大人なんだから眼を覚まそうな」
「覚めてるよ。覚めてる上で言うけど、シズちゃんが好きだよ」
「……。いやいや全然覚めてないだろ。良いか? 俺もお前も、大人で、しかも男だ。これの意味が判るか?」
「俺は別に男を抱く趣味は無いけどシズちゃんを抱きたいんだよ」
「そういう冗談は同じ業界に居る、可愛くて綺麗でお前に憧れてる女子に言え」

薄く笑った臨也はその瞳に獰猛な色を湛えると、俺の太股を膝で押さえ付け肩を押した。バランスを崩した身体がシートに沈むとそのまま肩口に顔を埋める。

「おい、臨也!」

運転手との間がガラスで遮られているのがせめてもの救いだった。こんな間抜けな状態を見られるのは耐え難い。二の腕を掴んで引き離そうとするも、中途半端な体勢が災いして上手く力が入らない。
そのまま臨也はあろうことか同性で、付き合ってもいない男に口付けを落としてくる。この男とするのはこれが初めてじゃないのだが、まさか総合的なファーストキスまでこいつに奪われているなんて事は口が裂けても言えない。

「んー、んっ……ふぁ……」

抜けるような声と、スモークガラス越しとはいえすぐ傍で他人が横切っている事を考えると恥ずかしくて死にそうになる。自然な動きで俺の手を拘束して指を侵す。ほんのり朱色に色付いた俺の顔を見て満足したのか臨也が唇を離すが、戒めは解けない。酸欠気味で肩を揺らす俺の目尻に軽く唇が触れる。

「んっ……」
「シズちゃんさあ、俺の事、好きなんでしょ? 認めちゃいなよ」

間近で見る顔は流石トップモデル様と賞賛の拍手を送りたいくらいに整っている。俺が劣等感の強い人間だったら、同性にも関わらず華のある青年に僻みの感情でも芽生えたのかもしれないが、そうでもないので素直に綺麗だな、と思った。ぼんやりとした頭の中に臨也の言葉が突き刺さり現実に引き戻される。同時に近付いて来た臨也の顔から逃げるように首を捻って逸らす。

「んで、こんな事すんだよ……なんで俺なんだよ」

戸惑いを示す為に、はぁと深く熱っぽい息を吐く。俺は劣等感が特別に強い人間ではないが、人並みに羨んだり妬んだりはする。幽は芸能人以前に家族だから深く考えた事は無かったが、俺を好きだ好きだと好意を寄せてくる男は余りにも俺と違う訳で。それは見ているものや、価値観や、そういう本人の努力だけじゃどうにもならない事だったりする。

「お前の事が好きな女なんて掃いて捨てるほど居るのに。なんで俺なんだ? 俺じゃお前みたいな住んでる世界が違う奴に似合わないしゴシップ記事にされるも怖い。お前も同性愛者だって勘違いされて叩かれる前にやめた方が良い。ついでに言っとくと俺はお前の事なんとも思ってないから。あえて言うなら弟の同業者? そんなレベル。だからそこんとこよろしく」

早口に捲くし立て、色々性格がひん曲がっている男が早くこの遊びに飽きれば良いのに、と思う。トップモデルの考えている事なんか判らないが、長くはない付き合いでこいつは人間で遊ぶのが好きな奴だという事を俺は少なからず知っている。だから俺に構うのも遊びの延長線なのだろうと思っていたから、俺としては迷惑なんだ。そんな事を考えながら、臨也がつまらなさそうな顔で俺を見下ろす――という顔を想像していたから、悲愴に暮れて力無い眼で見つめてくる顔を見た時は言葉を失った。

「なっ……」
作品名:二頁 作家名:青永秋