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亡き王女のためのパヴァーヌ  完結

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「あなたは、その、夢魔とかいうものだとしても、私は違います! 私は人間ですから。父も母も人間でした」
「夢魔の元は人間なんだよ。わしも昔は人間だった。夢魔は誕生した人間の子供に夢魔の種を植え込む。そして成長して夢魔になるんだよ。お前はりっぱな夢魔になった」
 雪乃はかんしゃくを起こす。
「違います! 私はそんなものとは関係ありません」
 老人は、まぁまぁというふうに、両の掌を突き出す。
「でも、お前は十一才の時、自殺したろう」
 雪乃は老人に憎しみを感じた。
「あなたに、お前呼ばわりされたくありません! プライバシーのこともほっといて!」
「ああ、すまんすまん。ああ、君、自殺しても死ななかったろ。六階から飛び降りた。下はコンクリートだったろ。普通の人間は死ぬだろう。怪我ひとつしなかったなぁ。夢魔は死なないんだよ」
 雪乃は立ち上がる。
「私、帰ります! 馬鹿なことには付き合ってられない!」
 雪乃は無性に腹が立った。こんなに自分の中に怒りがこみ上げてきたのは何年ぶりのことだろうか。自殺し損ねて施設に入れられて以来のことだと思った。あれから、雪乃は己の感情を表に表さなくなった。しかし、その感情は砂漠の伏流のように乾ききった砂の遙か下を脈々と流れており、今噴出しようとしていた。「待て、待て。そうだ。いろんなもの買ってくれて悪かったな。お金返すよ」
「いりません!」
 雪乃は買って来た品物も、由紀の母親が持たせてくれた紙袋も、そこにうち捨てたまま出てゆこうとする。
「待て、待ってくれ。それじゃぁ、入り口に段ボールの箱があるだろう。それを持って行ってくれ。中はミシンだ。欲しかったんだろう。最新式だ小さくて軽い。片手で持っていけるぞ」
 雪乃はうっとおしそうな顔で言い切った。
「いりません! 欲しかったら、自分で買う!」
 
 雪乃はブルーシートの小屋を出ると、早足で立ち去ってゆく。老人が追いかけてくる。服装は汚い作業着に戻っている。
「頼む、話を聞いてくれんか。頼むよ」
 雪乃はふりかえる。
「ついてこないでください。私をほっといて!」
 雪乃は寮のほうに帰ってゆく。足取りは怒りに満ちて、大股だ。雪乃は自分がなんでこんなに腹を立てているのかわからない。しかし、無性に腹が立つのだ。
 しばらく行くと、コンビニがある。そのコンビニの横の路地を入ると、寮への近道になる。しかし、そこは小さな飲み屋街だ。昼間は店が閉まり、ひっそりとしているが、夜は派手な照明と嬌声に満ちている。静かな、遠回りの道のほうを通っていこうと思った。
「なぁ、雪乃。頼むよ。話聞いてくれ」
 まだ、老人が付いてきていた。雪乃は頭を横に打ち振り、振り向いて怒鳴った。
「ついてくるな! この変態!」
 コンビニの前に居た数人の男達がやってくる。
「じいさん。この女の子になにしたんだ」
 老人は戸惑う。
「いや、わしは何もしとらんよ」
「嘘つけ! 今、この子、『変態』って言ったじゃないか!」
 雪乃は後の騒ぎに見向きもせずに足早に歩いた。怒りに我を忘れて、路地のほうに入ってしまった。戻ろうと思ったが、またあの老人と顔を合わせるのが嫌で、ずんずん先に進んで行った。左右に小さなスナック、立ち飲み屋が軒を並べる。道に二人の酔っぱらいが居た。 道の真ん中に突っ立っているのは白地に紺の縦縞の派手な背広、下は真っ赤なシャツを着ていて、パンチパーマの頭、背はさほど高くはないが、肩幅が異常に広い中年男だった。もう一人、道に座り込んで居る中年女が居た。真っ赤なツーピースを着て、真っ赤な口紅、瞬きで風が起こりそうな長い付マツゲだった。
 雪乃を見とがめた男のほうがにやにやとしている。雪乃は構わず、その横をすり抜けようとした。しかし、男がその方向に体を寄せる。雪乃は今度は反対側を抜けようとするが、また男が移動して通せんぼする。
 雪乃がきっと睨みつける。
「すみません。通してください!」
 男はへらへら笑い出す。
「『通してください』かぁ。俺、気の強いねぇちゃん大好きなんだよ。なぁ、一緒に酒飲もう。なぁ、飲もう」

 男は雪乃の肩に手を掛けようとする。と、何か強い力で、雪乃の肩越しに男の
体が吹っ飛んでゆく。空中で一回転して、雪乃の後にどさっと背中から落ちる。
男はうーん! とうなっている。座り込んでいた連れらしい酔っぱらいの女がけらけら笑い出す。
「お前も歳だねぇ。こんな小娘にぶん投げられてやんの!」
 男はかっとなって立ち上がると、雪乃に飛びかかる。
「てめぇ! 容赦しねぇぞ!」
 男は雪乃を羽交い締めにしようとするが、体に触れるや否や、何か強い力に吹っ飛ばされて、電信柱に背中を打ち付けて転がり、気を失ってしまった。
 女は男の有様に声が出ない。雪乃は女のほうに声をかける。
「ちょっと、あんた。連れなんでしょ。介抱してあげなさいよ!」
 女は驚愕のあまり、ぼんやりしていたが、雪乃のほうを向き、土下座した。
「お見それいたしました! どちらの姐さんでごさいましょうか?」
 雪乃はうんざりする。これでは安っぽい三流映画ではないかと。
「うるさい! 私に構うな!」
 女は平伏する。
「失礼いたしました!」

 雪乃の怒りは絶頂に達していた。あの夢魔と称する老人といい、この大時代のヤクザの夫婦といい、まったく三流映画の登場人物ではないか。馬鹿にしやっがって、と。それが、無性に腹が立つ。
 雪乃は寮にずんずんと入ってゆく。廊下に面した洗面所で寮長の松野弥生が歯を磨いている。雪乃はその横を無言で通り抜け、自分部屋の引き戸を開く。中に入ると、思いきり戸を閉めてしまった。ガタッ! という大きな音が響く。松野がうがいしていた水を、べっと! 吐き出す。
「篠原! お前、なんて閉め方してんの! 静かに閉めろ!」
 雪乃はその声を無視して、部屋に座り込む。ふと見ると、あの老人の持って帰れと言った段ボールの箱が既に置いてある。ミシンだ。雪乃は、その箱を老人に突っ返してやろうと思う。と、戸がノックされる。雪乃が返答する。
「寮長。すいません。具合悪いんです。お話は明日にしてください!」
 しかし、ひつこくノックが続く。堪り兼ねて雪乃が戸を開けて、眼を丸くするる。
「なにやってるんですか! ここ女子寮ですよ!」
 あの老人が申し訳なさそうに立っていた。老人の傍らに寮長の松野が座り込んでぐったりしている。「ああ、この人、ぐっすり眠ってる。他の人もぐっすり眠ってるから、大きな声出してもだいじょうぶ」
 老人は止める間もなく、部屋に入ってしまった。
「なに勝手に入ってるの! 出てけ!」
 老人はその声に聞こえないふりして、雪乃の部屋の小さな卓袱台の向こうに座り込んでしまった。それから、畳に手をついて、丁寧に謝罪した。
「すまん。つまらん猿芝居して、お前の善意を踏みにじってしまったことを、心から詫びる」
 雪乃も、老人に顔向けないように横向き座り込んだ。
「それもあるけど。それも腹が立った。でももっともっと腹が立ってることがあるんだ!」
 雪乃はそれをうまく言葉で言い表せないのにも苛立っていた。