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亡き王女のためのパヴァーヌ  完結

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「うん、私、病院の中ってあまり好きじゃないんだ。だから、雨の日はずっと病室のベッドに居る」
「何してるの? テレビ見てるの?」
 由紀が少し口ごもる。
「福井さん。誰にも言わないでね。私、お話書いてるの」
「小説書いてるってこと?」
 由紀が恥ずかしそうに否定する。
「小説なんて、そんな大それたものじゃないよ。なんだろう、童話じゃないなぁ。おとぎ話? なんか、子供っぽい空想のお話なのよ。売店に売ってるノートに書いていってるんだ。書いてると、気が紛れるから」
 福井が興味深げに言う。
「今度、読ませてよ」 
 由紀は激しく首を横に振る。
「無理、無理。文章下手だし、字汚いし、とても人に見せられない」
「じゃ、どんなのか筋書きだけでも教えてよ」
「今ね、山猫の話書いてるんだ。まだ、途中だから教えられないよ」
「そうか、聞きたいなぁ。また、出来たら、聞かせて」
「うん、またね」

 由紀の体が、健康を取り戻して行くにも関わらず、その心は暗く沈んでいった。今まで、雪乃の居る方向にいつも見えていた、位置を示すカーソル、青い星は何処にも見えなかった。どんなに遠くに行っても見えていたものが、もう見えなくなっていた。今まで、フィギュアスケートの大会でヨーロッパに行っても、北米に行っても、必ず日本の方角に見えていたのだ。もしかして、雪乃は死んでしまったのではないかという不安が、心の中に毒のように広がって行った。 由紀の心は次第に精神的に不安定になり、一日中泣き続けるようになっていた。
 福井が銀杏の木の側のベンチに来ると、由紀が膝小僧を抱えてベンチに座り、しくしくと泣いていた。福井が声をかける。
「由紀ちゃん。どうしたの? 何処か痛いの?」
「痛い。福井さん。心がとっても痛い。ベッドで話を書いていたら、心が痛くなって、悲しくなって、堪らなくて出てきたんだ」
 福井は由紀の傍らに座る。
「どんな悲しい話なの? 一人よりも、共有したら痛さも悲しさも半分に減るかもしれないよ。教えてくれる?」
 由紀は肯き、語り始める。
「前に話していた山猫の話。
 飼い猫が一匹、森に捨てられるんだ。金持ちに可愛がられていた白い高価な猫。でも、飼い主は縞模様の猫が欲しくなって、捨ててしまうの。空腹で虫とか捕まえて食べようとするんだけど、家の中でた飼われてた猫だから、そんなこと慣れてなくて、お腹すかせて倒れてしまう。そしたら、森の奧から一匹の山猫が現れて、捕ってきた野ネズミをくれるの。そうやって、山猫は狩りの下手な白猫に餌を分けてくれるようになったんだ。
 それから、白猫はいつも、夜は山猫の側で眠り、昼は狩りの仕方を教えてもらい、一緒に暮らすようになったの。ある日、白猫はやっと、自分だけで野ネズミを捕まえることができたんだ。それを山猫の元に、誇らしげに持ってゆくと、山猫は立ち上がり、何も言わずに森の奧のほうにずんずん行ってしまうの。白猫が追いかけて聞くと、山猫は空を見上げたんだ。その日は雲一つなくて、森の木々の切れ間から、きれいな青空が覗いていたわ。山猫は、ぽつっと言ったの。
『今日は死ぬにはいい日だ。今から、山猫の森に行く。父も母も兄弟も、仲間もみんな、遠の昔にそこに行ってしまった』

 それだけ言うと、山猫は行ってしまうの。白猫が付いていくと、山猫は恐ろしい声で叱ったわ。
『来るな! 山猫の森には、山猫しか入れない!』
山猫はずっと前から病気だったの。それと同じ病気で他の山猫は全部死んでしまい、最後の一匹だったのね。もっと早く、山猫の森に行くはずだったんだけど、ぶきっちょな白猫を見かねて、狩りの仕方を覚えるまで養ってくれてたんだ。
 叱られても、吠えられても、白猫は後をついて行った。山猫は体が弱ってたんだけど、急にものすごい速さで走り出した。白猫は後を追ったけど、追いつけず見失ってしまった。それから、白猫は何処にあるかわからない、山猫の森を捜し続けた。もう毛も汚れて灰色になって、傷だらけになって、必死で捜し回った。そうやって、何日も何日も。何月も何月も。ただ、あの山猫の側で死にたくて、ずっとずっと、捜し続けた……」
 由紀は、わっと泣き出した。
「会いたい。雪乃に会いたい……」
 福井は由紀をなだめようとする。
「由紀ちゃん。そんな悲しい話、考えてちゃ駄目だよ」
 福井は由紀の手を掴む。と、触れた手から、すざまじい光が迸り出た。その光の中に雪乃の姿が見えた。
「雪乃! なに、これ? 雪乃の姿が見える」
 福井はその手を引く。しかし、今度は由紀が福井の手を掴む。また光を発する。その中にやはり、雪乃の姿が見える。福井は慌てて、手を振りほどき、両手を腰の後に回して隠す。
「由紀ちゃん。駄目だ! わしに触ってはいけない!」
 しかし、由紀は福井の手を再び掴もうとしたが、福井が手を払ったため、バランスを崩し、福井のほうに倒れ込む。倒れる体を支えようと手を突き出す。突き出した掌が福井の胸にべったりと押し当てられた。福井の胸に触れた由紀の手がひときわ眩い光を発する。福井は叫び声を発する。由紀の掌が吸い付くよう貼りつき、体を離すことができない。由紀は自分では何をしているのかわかっていないなかったのだが、夢魔の老人から雪乃に関する記憶を全て抜き取っているのだった。
 由紀に流れ込んだ、雪乃の命が、さまざまな特殊な力を呼び起こしていた。これもその一つだった。他人の記憶の中から、自分に興味のあるものを検索し、吸い上げてしまうのだ。

「これ、何なの? 福井さん、あなた、夢魔?」
 福井は慌てる。由紀にこんな力があるとは思いもしていなかった。
「雪乃! 雪乃が死んだ! 雪乃は私の命を救うために、死んだ。私が雪乃を殺してしまったんだ……」
 由紀は突然、わーっ! という叫びを上げると、銀杏の大木の幹に、自分の腕を叩きつけ始める。皮膚が破れ、血が滲み出す。
「由紀ちゃん! やめなさい! 自分の体を傷つけちゃいけない」
 由紀は両手を銀杏の木を抱くように回す。その指先が硬い幹に入ってゆく。まるでチーズケーキ指を突っ込むように、何の抵抗もなく。銀杏の幹に深々と指を入れて、由紀が甲高い叫び声を発する。すると、銀杏の葉がみるみるうちに黄色く色づいてゆき、落ちて行く。瞬く間に葉は全て落ち尽くし、銀杏の木は丸裸になってしまった。むき出しになった枝が水分を失い、瞬時に枯れて行く。枯れた枝が、音を立てて折れて次々と下に落ちてくる。
「由紀ちゃん! やめろ! 自分の力を外に放ってはいけない!」
 銀杏の太い幹にびしびしと、深いひびが入って割れて行く。
「やめろ!」
 福井の手が由紀の背中に押し当てられる。ばしっ! と激しい音がして、火花が飛び散る。由紀は力を失い崩れ落ちてゆく。福井は由紀を一時的に失神させた。
「看護婦さん! 来てください! 助けてください!」
 福井は声を張り上げる。その声を聞き、看護婦が二人駆けつけてくる。