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深川ひろみ
深川ひろみ
novelistID. 14507
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挽歌 - 小説 嵯峨天皇 -  第一部

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第一章 春霙哀歌(1) - 東宮御所にて -



 時は延暦八年(七九〇年)、仲春二月。
 桓武天皇の御世である。
 六年前に都と定められたここ長岡京では、桃の香りが微かに漂っている。
「母上、母上、ちょっと見てください」
 東宮御所(皇太子の居所)に弾んだ声が響く。
 都の北端、東西の中心には、およそ東西四十丈(一・二km)、南北四十六丈(一・四km)の方形の大内裏。周囲に築地が巡らされたこの方(はこ)の中に、帝の生活空間たる内裏と、朝堂院・大極殿をはじめ、政治の中枢である二官八省などの官衙全てが集まっている。
 東宮御所もまた、その建物のひとつであった。内裏の南東に通りを挟んで隣接している。
 前(さき)の声を上げたのは、そのこの東宮御所の主人であった。
「ほら、これを」
 ぐいぐいと袖を引かれて、母上―――皇后乙牟漏は微笑して視線を向けた。
 三十一歳。匂いたつような艶麗さと同時に、甘やかな優しさをその身にそなえた、女盛りである。身を包む錦(にしき)の背子(からきぬ)―――袖なしの上着―――の橙(だいだい)色が、透き通るように白い肌によく映る。くっきりと通った鼻梁、そしてぱっちりとした二重の眼を持つ彼女の笑顔は、非常に華やかな印象があった。結い上げた髪には、翡翠の玉がほのかな光を放っている。あたかも一幅の唐の貴婦人の画を見ているようだ。
「どうなさいましたか、東宮?」
「ほら、これ」
 現在十六歳。昨年一月に元服を終えたばかりの東宮、安殿(あて)親王は、黒々と墨を塗ったばかりの紙をべろりと母親の前に突き出した。慌てて乙牟漏は身を引く。
「まあ、駄目ですよ。墨が落ちるじゃないの」
「ね、これ、神野(かみの)が書いたんですよ」
 少年は、母親のたしなめなどまるで意に介さない。にこにこと紙を掲げている。乙牟漏も慣れているのでそれ以上は言わず、白い手を伸ばしてそれを取ると、床に広げた。その微笑が、更に深くなる。
「まあ」
 そこには、たどたどしい不揃いな文字で、こう書かれていた。


     一身為軽舟(一身、軽舟となる)
     落日西山際(落日、西山の際)


 それを書いた本人、四歳の神野親王は、その横で小さな白い手を動かして次なる「作品」にとりかかっていた。神妙な表情で筆を動かす姿はなかなかに愛らしい。母親は同じく乙牟漏で、安殿にとっては同母弟にあたる。
 安殿はこりこりと頭を掻く。
「神野が来ると、いつも紙がなくなっちゃうんだよなあ」
「足りないのでしたら、緒嗣(おつぐ)に持って参らせませ。あなたが手習いをなさると聞けば、よろこんで持って参りますよ」
 やぶへびだった、という顔を、安殿はした。
「詩を作るのは、好きなんだけど」
「だからといって、手習いをおろそかにしていい理屈にはなりませんよ」
「あ」
 安殿は声を上げた。


     常随去帆彩(常に去帆の彩に随い)
     遠接長天勢(遠く長天の勢いに接す)


「おい、神野」
 神野は手を止める。
「はい」
「そこ、違ってるぞ」
「え」
 ひょいと筆を取り上げ、彼は「彩」の横に大きく「影」と書き込んだ。
「彩に随ってどうするんだ。「常に去帆の影に随い 遠く長天の勢に接す」と読むんだよ」
 そのとき、突然拍手の音が響いた。それと共に、野太い声が投げ入れられる。
「いい兄上だな」
 部屋にいた者たちは皆、弾かれたようにそちらを見た。
「主上(おかみ)!」
 安殿は大声を上げ、筆を卓上に放り出して平伏した。神野も即座にそれに倣う。筆は転がって、床に落ちた。墨が黒い染みを作り、傍に控えていた女官が、慌てて近づくと布でそれを拭き取る。安殿は気づいて頭を上げた。
「あ、悪い」
 主上―――桓武帝は声を立てて笑う。
「いい兄上だが、そこつなのは相変わらずだ」
「主上、御加減は?」
 心配そうに問う乙牟漏に、桓武は微笑を向けた。
「朝よりもずいぶんよい」
 そう言うが、あまり顔色はよくない、しかしそれは口に出さず、乙牟漏は
「どうぞ、お座りになって」
と夫を促し、床を拭き終えた女官に脇息(きょうそく)を持ってくるよう指示を出す。ほどなく脇息が出され、白湯が運ばれてきた。
「それにしても、また先触れもおつかわしにならず」
 桓武が腰を落ち着けると、乙牟漏は自分よりも十八歳年長の夫をたしなめる。桓武は五十三歳。えらの張ったいかつい顔には、近頃少し疲れが目立つが、それでも意志の強さを感じさせる眸(め)と堂々たる態度は、彼を五歳は若く見せていた。安殿はその雰囲気をよく受けついでいる。
「東宮御所でわしを仲間外れにして団欒をしておると聞いてな。寝てはおれんと飛んできた。皆ついてきおったが、外で控えておるのさ」
 脇息にもたれてくつろいだ姿勢をとると、桓武は神野に眼を向け、ゆったりと笑う。
「相変わらず、手習いが好きなようだな。大したものだ。だがな、先刻から見ておったが、兄上の書を手本にしようなどとは、ゆめ、考えるでないぞ」
「父上!」
 「主上」が「父上」になった。安殿は十六歳という年相応にむくれて、唇を尖らせる。桓武は笑った。
「お前は手本をきっちりまねぶということをせん。それで人の手本になれるわけはなかろうが。―――だがまあ、お前の書は、わしは好きだよ。勢いがあってなかなかいい」
 言ってから、神野に向かって手招きをする。安殿はかりかりと頭を掻いていた。
「こっちにおいで」
「はい」
 神野は立ち上がると桓武の前に行き、ちょこんと腰を降ろした。
「近頃は、楽にも関心を持っているようですわ」
「ほう。楽に関しては、わしはあまり判らんがなあ」
「きれいなものがあると、やってみたく思います」
 鈴を鳴らすような声で、神野は言う。
「はは。お前は風流人だな。何が好きだ」
「和琴(わごん)の音(ね)がきれいです」
「そうか」
 桓武は白湯をすすった。
「近いうちに、誰かよい師を遣わそう」
「はい」
 神野はにっこりと笑う。桓武も顔をほころばせた。
「そして大きくなったら、安殿と合奏をして、わしに聴かせておくれ。これからも、末永く、兄弟仲良くするのだぞ」
「はい」
 神野が答えると、桓武は大きく頷いた。その様子を見ていた乙牟漏の眸を、かすかな陰りがよぎった。