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ツカノアラシ@万恒河沙
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ひとでなし

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「ひとでなし」
と、その女は言った。今にも消えてしまいそうな電灯一つの暗い夜道。女の薔薇色の唇には端を持ち上げるような薄い微笑み。客観的に言っても、私は押しも押されぬ『ひとでなし』の部類だろうから、そう言われる事には驚きは感じない。しかし、だからと言って見ず知らずの女にいきなり言われる筋合いはない。私が軽く眉を顰めて胡乱気な目を女に向けると、女は小さく笑って身を寄せてきた。女の躯からは花の薫りが漂っている。むせ返るような花の薫り。そして、
「ひとでなし」
と、もう一度、女は言って、顔中に真っ赤な血を垂らし歯をむき出してにやりと笑うとすうっと煙のように消えたのだった。むせ返るような花の薫りだけ残して。
身に覚えのない事で責められるのは、どうも釈然としない。私の他に誰もいなくなった路上で憮然としてため息をついたのだった。

「身に覚えがありすぎて、困るだろう」
と、私は自分の雇い主兼腐れ縁の相棒の男に笑いながら言った。正確には、自分の家の本家のご当主様なのだから、もう少し丁寧に言うべきなのかもしれないが、私と彼の付き合いの長さと、ご本人がとんと興味ない上に、恐ろしく古風で堅苦しいご本家に飽きてご当主様自ら出奔してしまったのだから、もうどうでも良い話なのだろうと勝手に納得している。続けて、
「それで、今度はどんな女を酷い目に合わせたのさ」
と、私がにやにやしながら尋ねると、男は思い切り厭そうな顔をする。男の膝の上には久しぶりに事務所に連れてきた十歳位の白い振袖姿の少女が座り、楽しそうに私達の会話をくすくす笑いながら聞いている。恐らく、絶対、私達が大層面白い出し物か何かをしていると思われているに違いない。
「人聞きの悪い事を。わざわざ恨みを買うような、ヘマはしませんよ」
男は後ろからぶん殴ってやりたくなるような澄ました顔をしていた。いや、私に勇気さえあれば、ためらわずに問答無用でたこ殴りにしている所である。それができないのが、無念で堪らない。いつか、臥薪嘗胆してやるぞと心の中で誓う。たぶん、恐らく。
「この間だって……」
と、私が半笑いの厭味を続けようととした時に、硝子戸がとんとんと叩かれる音がしたのだった。誰かお客が来たらしい。男の促すような目線に私はやれやれと椅子から立ったのである。
清廉潔白探偵事務所へようこそ。
ここは、清廉潔白探偵事務所。箱庭のような町の商店街の一角に存在している探偵事務所である。室内には耳障りでない程度の音量でボサノバの『おいしい水』が流れている。私は、ここ数週間に渡って私を悩ませている問題について、相談しにきていた。ここを紹介してくれた知人によると、この事務所は変な依頼しか受けないとの話だった。人知を越えた、普通ならおよそ扱わない雲を掴むような話を扱ってくれるとの事。私が知人に変わった事務所名だねと尋ねると、知人は所長が『清廉潔白』とは無縁な人だから悪ふざけで付けたのではと、肩を竦めて言ったのだった。
そして、私の目の前には三人の人物。
膝の上に光沢のある真白の大振り袖を着た美少女を載せた、蛇のように黒目がちの端正な顔立ちをした男はにこやかな顔で『青柳竜衛』と名乗り、憮然とした面持ちをした男装の美女は『鬼堂篁』とやる気のなさそうな声で自己紹介をした。美少女が男の事を似て非なる名前で呼んだような気もしなくもないが、ここは聞かなかった事にする。そんな事よりも、今、私の身の上に起こっている事の方が重要である。それにしても、一応所長だと言う男は何故か美少女のご機嫌ばかりとって私の話を聞いてくれようともしない。いや聞く気すら持ち合わせていないような気がする。困ったものである。女の方も私と同じ気持ちだったらしい、男に向かって忌々しげに「邪魔するなら、奥に行ってろよ」と言うが、言われた方は蛙の顔に水。男は品の良い笑みを浮かべると、「この子が聞きたいと言ってるので、おとなしくご拝聴させて戴きますよ」と、等とぬけぬけと言う。私や彼女が男の事を殴りたくなったのは言うまでもない。
そして、私は気が付く。椅子に座る男の膝の上に横抱き状態で座っていた美少女がいつの間にか期待に満ちあふれたキラキラと輝き大きさ瞳で私の事を見ている事を。まるでおとぎ話を読んで欲しいとねだる子供のような顔に私はたじろぐ。自慢ではないが、私の話はそんな砂糖菓子のような話ではない。むしろ、お子さまに話すような話ではない。男は私の躊躇が解ったらしい。この子なら大丈夫ですからと男はため息をつきながら静かな口調で言って私に相談内容を話すようにと促したのだった。
『ヒトデナシ』と毎夜のように私の夢に現れて囁く血塗れの女。それが、私の問題だった。
ヒトデナシと囁く女の夢を見るのですと、私は言った。
夢の中で夜道をひとり歩いていると、女に出会うのです。綺麗な女でした。花の薫りがする女でした。風で手折られしまうような見るも儚い風情の美しい女でした。その女を見ていると、私の胸にはむらむらとよこしまな思いが芽生えるのです。あの白鳥のような白くてほっそりとした首を自分の手で手折りたい、傷つけたい。あのすんなりとした、胴の中身を暴きたい。見ている内に、そんな心持ちになっていくのです。すると、どうでしょう。いつの間にか私の手には銀色に光るナイフが握られ、彼女の背後に忍び寄っているのです。さうして、私は彼女を後ろから刺し、首や腹を引き裂くのです。生温かくて赤い血が冷たくなるまで、彼女の躯を弄ぶのです。それは、それはうっとりする程に心地よく、酔いしれるかのようでした。これを毎日繰り返すのです。幾度、彼女を殺しても。また、夜になると儚な風情でいつもの場所に立っているのでした。
そして、彼女は朱唇を翻して言うのです。ひとでなしと。
「それは貴方が殺した女の夢でしょう」
と、私の話を聞き終わると若い男と美少女が声を合わせて言った。絶妙な二重奏。まるで、台本でもあったかのように声を合わせて言うのである。二人とも、とろりとした薄い笑みを浮かべていた。まるで、二人で一人かのように笑うのである。それを見た、女がため息をついたような気がした。私の顔にも奇妙な生き物を見た時のような不可思議な表情が浮かんでいるに違いない。
「何故、そう思うのですか」
と、私が問えば。目の前の二人は笑みを深くする。目を細め、唇の片端を持ち上げるような笑み。まるで、何か二人で悪戯でも企んでいるかのような顔をしていた。そして、二人は口を次々に開く。
「だって、貴方の後ろには」
と、美少女。
「話の中の女が」
と、若い男。
「恨めしそうな顔をして」
と、美少女。
「手招きして立っているのですから」
と、若い男。