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死に損いの咲かせた花は

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【四】





 滑車が軋む音を立て、桶を井戸から引っ張りあげる。
「精がでますね」
 井戸で水を汲んでいたところに声をかけられ、振り返った左門は軽く笑った。下がって膝をつこうとしたところを止められ、立ったまま頭を下げる。
 左門の目の前に現れた光秀は、常の穏やかな笑みを浮かべていた。
「朝稽古とは熱心なことで。しかし、力丸殿の姿が見えぬようですが?」
「手ぬぐいを忘れたとかで、取りに戻りました」
「そうですか」
 特に用はないらしく、光秀はのほほんと笑っている。
「……明智殿と帰蝶様は、ご親戚だそうですね」
 唐突な左門の問いに、光秀は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに困ったような笑みを浮かべた。
「幼馴染の気安さで、つい。桜殿にも不信に思われるようでしたら、たしかに控えた方がいいのかもしれません」
 光秀の応対には、含むところは特にうかがえない。
「明智殿」
「はい?」
「明智殿は、信長公をどのようにお考えですか?」
 問いを口に出してから、左門はしまったと思った。目を見開いた光秀が左門を見詰める。
 しかし光秀はふと視線から力を抜くと、ここにはない何かを見るように、わずかに目を伏せた。
「……大殿こそが私の望み」
 口を開いた光秀の声は明るく、静かなそれはとても強い。
「心からの忠誠を捧げています」
 言い切る光秀の目には、一点の曇りもなかった。



 先日からよく会うと思っていた光秀だが、どうやら客人の饗応役を任されていたらしい。のんびりしているように見えたが、それなりに慌しかったようで、そういえば左門が光秀を見たのは彼が自分から姿を見せた時だけだったと気付く。
 もてなす相手は武田征伐の折に功績を上げたという武将で、信長の幼馴染でもあるという話だ。彼のためにやれ京都だ堺だと商人を呼んでいた光秀だが、忙しさをそれなりに楽しんでもいたようで、あまり疲れた様子ではなかった。

「……先生、暑い……」
「我慢なさい」
 ごく薄い水色地に、深緑で描かれた露芝模様。少なくとも見た目だけはわりと涼しそうな力丸の格好は、左門が選んでやったものだ。対して左門は藍一色。どちらも夏の装いとしてはまずまずだろう。
「乱丸殿ならいざ知らず、力丸はそう長い席じゃないんだから」
「はぁい……」
 本当は嫌だけど我慢します、という気持ちそのままの表情で、力丸は口を閉じた。それに軽い溜息をついて、左門も力丸の後ろで背筋を伸ばす。
 光秀が饗応役を務める宴には、信長の小姓たちも幾人か出席することになった。そこで一番幼い力丸のお目付役として、左門も同席を命ぜられたのだ。
 宴は賑やかに進んでいる。
 信長の脇に控えた乱丸は澄まし顔で酌をしていたが、こちらをちらりとも見ようとしないあたり、心中穏やかだとは言いがたい。左門自身はどうでもいいが、力丸と目ぐらい合わせてやってもいいのでは、と思う。しかし乱丸にとっては、左門を視界に入れるのはそう簡単なことでもないらしかった。
 酒、野菜、魚と、次々と料理が運ばれてくる。
 機嫌よく皿に箸を伸ばしていた信長の手が、不意に止まった。
「……光秀」
 唐突に発せられる、明らかに怒気をはらんだ信長の声。今の今まで和気藹々としていた空気が一転、薄い氷が張ったようなそれに変わる。
 短い返事と共に信長の側へ寄った光秀の頭へ、信長はいきなり皿の中身をひっくり返した。
 驚いたのは様子を伺っていた周囲の方で、周囲からはどよめきの声があがった。それに構わず信長が皿から手を離すと、床についた光秀の手の上に落ち、転がって大きな音を立てる。
「腐ったものを客に出すのが、お前の極上のもてなしか」
 光秀は平伏するだけで、何も言わない。
「下げよ」
 固唾を呑んで見守る周囲の緊張をよそに、静かな声で謝罪を述べた光秀はすぐに侍女を呼び、後片付けを命じた。光秀自身も着替えのためか、席を立つ。
「せ、先生……これは――」
「うろたえるな。……黙ってらっしゃい」
 部屋を出て行く光秀の背中が、妙に広く感じられて,
戸惑う。
その違和感がしこりとなって、左門の胸に残った。



 騒ぎの翌日、光秀は饗応役の任を解かれた。
 それと同時に光秀は居城である坂本城へ帰された、その後すぐに救援要請のあった備中高松攻めへの出陣を命ぜられる。
 そして信長は、光秀の後に続く形で高松攻めへの増援を決めた。嫡男である信忠と、小姓を中心とした供回りを連れ安土を発ち、京の本能寺という寺で逗留。
 そしてその行軍には、当然のように左門も連れられていた。

 にこにこと機嫌よく笑う力丸に、左門は溜息をつく。
「梅子も連れてきたの……?」
「はいっ!」
 本能寺での逗留は行軍だ。物見遊山ではない。たとえ総大将である信長自身が茶会なんか開いていても、行軍は行軍に違いないのだ。なのに。
「……兵糧が少なくなったら、力丸のご飯から梅子の餌を出すんだからな?」
「はぁ。そりゃそうでしょ?」
「分かってるならいい。まったく……」
 分かっているならいいが、この子は本当に分かっているのだろうか。梅子に鼻先を舐められて擽ったそうに笑う力丸に、堪えきれず左門の口からはまた溜息が出る。
 梅子に子犬特有の甲高い声で咆えられ、肩を落していた左門は、少しだけ心が慰められた気がして梅子の頭を軽くなでた。
「……先生」
 不意に笑みを消した力丸が、ぽつりと落すように呟く。
「ん?」
「明智殿は、今頃どうされているでしょうか?」
 心配そうな問いかけに、左門は梅子を撫でていた手を力丸の頭に移した。
 先日の宴の騒ぎで、光秀は面目を失った。そしてすぐさま援軍に向かうよう命じられたということは、言外に失った面子を取り戻せと言われているのか、それとも織田軍の中枢から追い出されたのか。
 そして光秀は、信長からの命をどう捉えたのだろう。
 立ち去る光秀に見た、あの不自然に広く堂々として感じられた背中。
 胸の内に残るしこりは日に日に大きく膨らみ、警鐘となって左門に違和感を訴えかける。光秀にあった不自然な落ち着きは、汚名返上への覚悟とは少し違う気がした。
 信長の望み。そして、光秀の狙い。
「先生?」
 不思議そうな力丸に呼ばれて、左門は意識を浮上させた。
「どうかしましたか?」
「いいや。なぁ力丸。すまないけど、茶を入れてきてくれないか? 喉が渇いて」
「お茶? ……はい、わかりました」
 力丸は納得していないのだろうが、少しの間でも一人になるためにはこんな口実でも仕方がないだろう。どう誤魔化すかは、その時にまた考えればいい。
 行ってしまった力丸と梅子の後姿を眺めながら、左門は反芻する。
「あの、桜様?」
 また呼ばれ、左門は若干うんざりした気持ちで意識を目の前に向けた。正面の侍女は、左門の表情に気付いたのか、申し訳なさそうな様子で両手を握っている。
「はい?」
「その、桜様は……」
 言いにくそうな侍女の様子に、一体何なのかと訝る。力丸の話によると彼女は光秀の紹介だそうだが、もしかしたら騒動の余波が自分に及ばないかと心配しているのかもしれない。しかしそれを左門に相談されてもどうしようもないし、だったらまず帰蝶に相談する方がよほど有益だ。
作品名:死に損いの咲かせた花は 作家名:葵悠希