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彗クロ 2

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2-7



「……え、ケセドニアに住んでるんじゃないんですか?」
「うん。まあ、商人たるもの、なにかと縁深い街ではあるけどね。拠点にすることはあっても長居はしないし。特定の場所に腰を落ち着けることはあんまりないかな」
「……なんだか、気が休まる時がなさそうな感じ……」
「古来から行商なんてそんなものだよ。確実に骨を休められる庇がない代わり、しがらみのない勝手気ままな浮き草稼業ってね。商談の日程さえちゃんと押さえておけば、こうして予定を軽くずらして新種の薬草の噂に踊らされたりなんかもできるし」
「……この辺りに薬草なんか生えてる……かな……」
「あー、はは、どうも季節をひとつ間違っちゃったみたいだねぇ。まあ、カイツールではそこそこ稼がせてもらったし、南下した甲斐はあったよ」
「薬って、お金になるんですね」
「古今東西、病だけはなくならないものだから。大儲けには向かないけど、地道にやってれば食うには困らないものなんだ」
「自立って、大事だなあ……」
「――って、さっきからなんの話だっつのッ!!」
 延々と垂れ流される途方もなくどうでもよすぎる世間話を背中に、大地を踏みつけながら肩を震わせていたレグルは、とうとう我慢ならずに踵を返して吠え立てた。
 すると後方を並んで歩いていた大小二人組は揃って足を止めた。欠片も似ていないその顔をまたしても邪気なくきょとんとシンクロさせてくるものだから、余計に腹が立つ。
「なにって……」
「身の上話というか、世間話っていうか?」
「――じゃなくて! だからその……あーもー空気読め! なんでテメェがついてきてんだっつってんだ!!」
 ちゃっかり聞き耳たてていた事実をぶちまけたに等しい前言を誤魔化すに誤魔化しきれず、レグルは、ズビシィ、と人差し指を銀髪の優男に突きつけて強引に押し切った。
 山道もとうに半ばを過ぎ、下り坂が多くなってきていた。おそらく出口も近かろうという頃合のはずだが、エントウルフの群れを追い払った中腹から、この胡散臭くないのが余計に胡散臭い薬売りはしらっとした顔で後をついてきて離れやしない。
 しかして男は悠揚に淡い瞳をしばたたかせ、あっけらかんと言ってのけるのである。
「ええ? だって行く方向、同じだし」
「だってじゃねえよ、だからってノコノコついてきてんじゃねーよっ! さっき俺がなんで啖呵きったと思ってんだ!? 近くで歩いてるヤツがピッチ上げたらテメェと関わりたくねぇっつー無言の主張だって、わかれそんくらい!!」
「あ、そうなんだ。ごめんごめん。僕、足長いから、まさかこのペースで早足だなんて全然気づかなくって」
「……そのケンカ買っ――」
 のうのうとした笑顔に向けて憤然と踏み出した一歩が、妙に脆い感触を踏んだ。
「――たぁぁぁぁぁッ!?」
 くしゃり。地面が冗談みたいに乾いた悲鳴をあげたかと思えば、途端に視界が大きく傾ぎ、レグルは一瞬の空中浮遊を味わった。
 あとは重力の手招くままだ。世界は反転し、制御不能のスピードの中で、擦過の熱と硬い衝撃が何度も全身を痛めつけて通り過ぎていく。胸部を圧迫される感覚と歯を食いしばるのに必死で、声を上げるどころか息さえまともにできない。時間にしてほんの数秒、景気よく斜面を転げ落ち、無体にも下の砂利道に叩きつけられてようやく三半規管の地獄を脱した。慌てて頭上から追いかけてくる呼び声がぐわんぐわんと脳みそを揺らす。
「――痛ってえ……んっだよクソっ……」
 ……どうやら足場が崩れて全身で崖にダイブしてしまったらしい。間抜けにもほどがある。たいした斜度と高低差ではなかったのが不幸中の幸いだった。
 レグルは情けなく悪態つきつつなんとか五体満足に済んだ身体を起こした。軋むような痛みに襲われながらも、せめて自分の蛮勇の軌跡を見定めてやろうと根性入れて持ち上げた視界に、唐突に影が射した。
 ……背後に、分厚い存在を感じた。熱く荒々しい呼吸。生命の圧迫感。
 冷えた空気を呑み込み、水の中でそうするように、レグルはゆっくりと首を回した。
 思いのほか間近。日を遮り、レグルを多い尽くしてあり余る影を落とす、小山のような塊。逆光を負い、か弱く哀れな獲物を前にして抑えきれない興奮に忙しなく肩を上下させている、四つ足の、大きな、大きな、獣。
 ――ライガだ。
 成体。それもかなりの巨躯だった。
 形態はウルフに類似しているが、体毛は逆立ち色鮮やか、顔立ちはより精悍で、尖った耳は翼のように背後へと発達しており、体つきもいかつく、全体に風格がある。なにより、大きい。個体によっては人間の大人を優に丸呑みできるだけの巨体を誇り、現実に人間を捕食する事例も少なくない。ルグニカ地方では最大の肉食獣であり、実質上、生態系の頂点に君臨する魔物だ。
 これほど間近に森の王を目にしたことはない。純然たる恐怖が血液を逆流する。
(ライガの仔供は人を好むの)
 脳裏に、聞き知らぬ声が弾けた。
 それは誰の言葉だったか。
 突如として湧き上がった悪寒に全身を手酷く叩きつけられ、レグルは恐慌に彩られたうめきを上げながら発作的に左腰に手を回し、躊躇う暇もなく引き抜いた。丈の短い刀身はひどくあっけなく鞘を飛び出し、鋭い一閃を描いた。
 本能の為せる反射だった。
 ギァン。ライガが哀れっぽく鳴いた。今まさにヒトの子の柔らかな肉を切り裂かんと振り上げられた凶悪な鉤爪の、付け根を細く切り裂いた刀傷から暗い色の体液が噴き出す。――傷は浅い。
 後方からの援護射撃が追い討ちをかけた。音素銃の鋭い輝きがライガの片目に着弾し、巨体がのけぞったところを、拳より放たれ地を走る音素の閃光が重心の傾いた前肢を的確に撃ち据えた。けたたましい咆哮。ライガはよろめき、前のめりに倒れこんでくる。レグルの、ほぼ真上。
「――レグル!!」
 ルークの叱咤が背を打った。レグルの身体が、意思の通わない動作で無造作に動いた。
 鍛え上げられた黒刃が、重い手応えに吸い込まれていく。
 目の前を、鮮やかな毛皮が埋め尽くす。
 どう、と大仰な音を立ててライガの巨体は大地に沈み、レグルの視界は闇に閉ざされた。

作品名:彗クロ 2 作家名:朝脱走犯