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無音世界

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Lost 03. 泡音





 恐らく正常に音を拾えていれば、「はあ?」と此の耳に届いていただろう。なんとなく静雄の表情を見て臨也は見当を付ける。
 そんな反応が返ってきたということは、どうやら自分の紡いだ五文字は静雄に伝わったらしい。それはよかったと思う。
 だが一方で、困ったことに、静雄は臨也が逃げる為の時間を稼ぐ為か何かだと受け取ってしまった。臨也の視界の左に映る腕――それは静雄の右腕であるが、それが拳を握って引かれる。
 まさかこの至近距離でその拳を此方にぶつけてくるというのか。悟った臨也は慌てて両手を上げた。おどける様にではなく、抵抗はしない降参だというように彼に映る様に。
――ちょっと、それだけは勘弁して!
 聞き入れてもらわないとこの状況では非常に困る。臨也は今ではすっかり頼りなくなってしまった言葉だが、それしかこの状況で瞬時に相手に訴える術はない。
 酷く近い距離にある静雄の双眸を見据えると、静雄は静雄で此方が演技をして嘘を付いていないかと見抜こうとするようにじっと見詰めてきた。この二人の仲を知っている人間が傍に居れば、これは鬼の霍乱か何かと思ってしまうのではないだろうか。この距離合いで、見詰め合って、身じろぎもしない。瞬きもしない。
 しかし、そこに甘さを孕んだ熱は無い。腹を探る視線と珍しく偽らない視線が絡んでいるだけだ。
 ここで逸らせば駄目だと分かっているから、臨也もその視線を真正面から受け止める。見詰め合うというよりも寧ろ睨めっこのようなそれは長く続いたが、先に静雄の方から切られた。
 どうやら先ほどまで自分を追いかけてきた間の怒りは下がったらしい。怒鳴り声を上げることもなく、握られた拳は下ろされる。自分を囲おうとする静雄の檻が、一つ開いた。
 臨也は一先ずほっと胸を撫で下ろす。だが、これは自分の聴覚が云々を受け入れてくれたわけではなく、ただ拳を仕舞っただけにすぎない。
――やっぱりすぐには信じてくれないよなぁ……。
 残念なことに、普段の行いが悪いせいなのか――いいやこれは仲が悪いせいか、静雄は臨也の言葉を一度では素直に受け入れてはくれなかった。
 どうすればこのまま静雄が自分を見逃してくれるのか。そんなこと分からない。
 臨也は先ほどきちんと伝わった言葉を慎重にもう一度繰り返した。聞こえないんだ、と。
 信じてもらえるとは思っていない。ただ、受け入れてくれればいい。
 ところが、やはりというべきか何言ってるんだ手前、と勘繰る様な視線に晒される。しかし、臨也にとってはこれは真実だ。嘘ではない。
 臨也は無神論者だから、神に誓ってなどとは言わない。それでも、一時的なものなかのか、それともこのままずっとなのかは定かではないが、今、臨也は耳が聞こえない。それが現実。
 どうしようもない。妙なところで鋭い彼ならこれが嘘ではないことぐらい見抜いてくれるだろう。誠心誠意を静雄に対して払って話などはしないが、それでも臨也はおずおずと口を開き、少しずつ現状を説明し始めた。思いつきで話し、それを聞きとって理解する方法を取れないので、臨也はきちんと文章を構成してから一つ一つを音にしていく。
 今、何も聞こえていないと言うこと。この距離でも聞きなれた静雄の怒鳴り声も自分の声も街の雑踏も鼓膜を震わせてくれないこと。朝はまだ音がぼんやりとでも拾えていたこと。波があること。朝から頭痛がすること。偏頭痛はいつものことだが、この痛みはいつもと違うということ。
 しかし、こんな状態など初めてだ。普段なら気にも留めない発音が、正確なのかあやふやなのかも分からないというのは人に何かを伝えようとするときにこんなにも心細いものにするのか。ぽつぽつと考えてから話していても確かに通じているのか分からず、臨也はちらちらと静雄の表情を盗み見る。ところが相手は聞いているのか聞いていないのか顔色一つ変えずに此方を見降ろしてくるものだから始末におえない。さしもの臨也も不安になってくる。言葉は段々と途切れ、声は小さくなっていく。
 これで目の前にいるのが知りもしない赤の他人だったら、臨也はこんな風にもなりはしないのだろう。目の前にいるのが静雄であるからこそ、臨也の不安は余計に強調される。

 言葉はこれまで自分のものだった。ところが、今では臨也が言葉のものになってしまっている。
 昨日までそこにあったものが無い。生きていればそんなものごろごろ転がっている。人は生きていれば死ぬし、突然音信不通になって何処かへ姿を消してしまうこともある。昨日会った店が今日は閉店。昨日愛を囁いた相手と今日は殺し合い。けれども何故だろう。この胸のざわめきは。
 街の雑踏が聞こえないのは構わない。いや、本当は問題があるがそれ以上がある。静雄の声が聞こえないのは堪らない、と臨也は思った。
 しかし、思ってすぐ、なぜそんなことをと自分で疑問を抱いた。聞こえなくなれば清々するだろうに。なぜ、そこに今一瞬でも自分はこだわったと言うのか。
 危険を察知できないからか。そうかもしれない。

 一通り説明したところで、静雄の表情を窺う。その表情は先ほどと変わらず何を考えているのか読めなかった。サングラスに隔たれた双眸がただじっと此方を見据えてきているだけである。そこに何かの色を臨也は見いだせない。
 困ったように臨也が静雄のバーテン服をくいくいと引くと、やはり聞いてなかったのか現実に引き戻されたような反応をされる。思わず臨也はむっとしそうになった。その前に静雄がこくりと頷く。
 その頷きは何なのか。肯定? 了承? 先を促す相槌?
 どれか分からない。しかし、安堵が広がる。
 ほっとすると、途端にそれまで忘れていた頭痛がずぐずぐと酷くなってきた。謀ったかのように呼吸も荒くなり、立っているのが辛くなってくる。
 頭が痛い、気分が悪い、だるい、辛い。――酷く、寒い。
 震える指先は寒さのせいか、それとも音の無い未来への恐怖か。
 失った言葉のせいであやふやだった足元から実際に膝の力がかくんと抜けた。
 慌てたように伸びてくる静雄の手や目を丸くした彼の表情を無音の世界に映しながら、臨也は世界がぐるりと回るのを感じた。静雄の手に捕らえられ、地面に倒れることは免れたものの、力なく臨也は静雄に支えられ凭れかかる。何かを言いたいのに口から零れてくるのは荒い息ばかりだ。霞む視界に静雄の顔が写り込む。
「臨也!」
 黒く冷ややかで静寂の保たれた世界に金色の光が射し込む。
 嗚呼、これは実音かそれとも幻聴か。できることなら前者でありたい。零れていく泡沫の音の中でそれだけははっきりと聞こえた。無音の世界で唯一、彼の声を拾った。


(音の無い世界はいつまで続くの?今だけなの、それとも一生?君の声はもうこの耳には届かないの? )

作品名:無音世界 作家名:佐和棗