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こんにちはさようなら 番外 目下の恋人

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 どうでもいい話をしようと思う。人を好きになった話だ。他人の恋愛話ほど退屈なものはないことは重々承知している。しかし今ふと思い出したのだ。だからたれかに聞いてほしかった。
それは十月だった。確か俺は五歳くらいで、あやめさんは十二歳くらいだった。あやめさんはまだ元気で、たくさん走ったり笑ったりしていた。細い首は今と同じように美しかったけれど、その腕は何かを守れる程度に丈夫だった。
俺は熱を出して、しかしながら我が家に病人を隔離できるような余分な部屋があろうはずもなく、すると親切なあやめさんの両親は、その立派なお屋敷の一部屋を俺に貸してくれた。俺はその客人用の、ベッド・ルームというのであろうか、立派なベッドが鎮座する一室に隔離された。窓は南向きで、出窓というものだった。人の背丈より大きな窓など見たこともなかった俺は、うつらうつらしながらその出窓から入る光を眺めていた。

ふっと気がつくとあたりは真っ暗で、そうしてひんやりとした感覚を覚えた。あやめさんが俺の額に手を乗せていたのだった。俺が目を覚ましたことに気づいたあやめさんは、ちょっと笑って、よく眠れた?と尋ねた。彼女のもう一方の手には水を張ったブリキの洗面器が抱えられていた。洗面器の中で、白い手ぬぐいがゆらゆらと揺れていた。真っ暗な部屋で、あやめさんの顔も良くわからなかったのに、その白さはいやに目に付いた。

人を好きになった。単純な男と笑うだろう。俺はそれを一向に気にしない。あやめさんの優しさは気まぐれであったかもしれない。普段から特にかわいがられたということもなかった。それでもかまわない。男の癖に、と云われるかもしれないが、そのとき俺は一生この人を信じて、この人に従って生きていこうと思った。それが正しいかなんてのはさして重要な問題ではなかった。

出窓からのぼんやりとした月明かりがすべてだった。あやめさんは部屋から出て行こうとせず、出窓に腰掛け歌を唄った。たれか、有名な歌手の歌だ。なぜ俺がその歌を知っていたか。鷹啓兄さんがその歌を口ずさんでいるのを聞いたことがあったからだ。五歳の俺は、難しいことはわからなかったが、直感的に二人のつながりを理解した。


織姫と彦星を知っているだろうか。彼らは運命の恋人だ。引き裂かれて、あきらめればいいのにただ一夜のために永遠の恋人だ。俺の運命の、永遠の、目下の恋人はあやめさんで、しかしながらあやめさんの一生に俺という恋人は存在しなかった。

何かが阻んだ恋をやめない目下の恋人たちは、今日もどこかでつながっている空を見上げている。その瞳を俺は手に入れられない。気の毒だとも思わない。偶像崇拝に近いと藤倉が笑った。まさにそのとおりだと思う。

けれど、すべて喜ばしい感情は彼女につながっている。

どうして崇拝せずにいられようか。