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マイナス、あるいは最悪の誕生日

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カゲロウ。寿命はとても短い。自然死でも。たとえこうして死んでいなくても。
 その長い脚は手洗い場の荒いタイルの凹凸に引っかかって、強い本流の中にありながらも排水口に飲み込まれないまま悲しげに揺れていた。いつその奈落に落ちていくのだろう、と私は一種嗜虐的な観賞をしながらずっと手を洗っていた。冬、痛い刃になるそれが両掌を焼く。それが気持ちいい。そのために流れる由緒正しい湧き水由来の水道水がカゲロウと学校の費用を襲っている。とても気持ちいい。襲う側にも襲われる側にも痛みがある。とてもリアルな気持ちよさ。
 カゲロウとウスバカゲロウは違う、と誰かが言っていたのを思い出す。おそらく父だ。あの男は理科の教員免許を持っている。曰く、ウスバカゲロウ科の一部はご存知アリジゴクの成体だが、カゲロウの幼生はすべて水生だそうだ。細かい違いは知らないが生い立ちはまったく違うということなのだろう。
 もしこのカゲロウがウスバカゲロウだったら、とまったく無意味な妄想をする。もしそうなら、かつて崩れる流砂で狩りをしていた彼、あるいは彼女が水の渦に飲まれてしまうという皮肉くさい場面になったのに、と少し残念に思う。
 いつも事物とはうまくいかないものだ。こうしてウスバカゲロウが引っかかっていないこともだが、先ほどから体育館の屋根の上からの俯瞰に明け暮れている椿と時折視線が絡むのもうっとうしいことこの上ない。せめて視力が高くなければ椿がそんなところから私を見下ろしつつ笑っていることには気付かなかったのに、やはりうまくいかない。
 睥睨してやると、椿はさらに卑しい微笑をその顔に湛えた。私は鳥肌が立つのを感じて、流水を止めて椿と正対した。カゲロウは知らない間に排水口に飲み込まれていた。舌打ちをする。ちっ。
 椿は整列して座る子供のように膝を抱えて三角に座っていた。警戒するというのでもなく、どんな座り方でも構わないというような風体だ。私と相対するのに構える必要などないと暗に告げている。
 唇が開く。この言葉は嫌いだし言って気持ちのいいものでもないのだけど、衝動が抑えきれない。
「うざい」
 椿はそれを聞くと、いや実際聞こえてはいないのだろうが、その言葉をつぶやいたとたんにチェシャ猫か口裂け女のように口を三日月状に開いてさらにいやらしく笑った。あれだけ口が開けば、たいそう奥歯の磨きやすいことだろう。みたらし団子のような串に残るものも食べやすいに違いない。唾の処理には困るかもしれないが。
 汚らしい黄土色の僧衣を翻して、椿は立ち上がる。そのとたん予鈴が鳴り、それに気を取られて目をそらしたとたん一陣の風が駆け抜け、次に体育館の屋根を見上げた時にはもう椿は散ってしまっていた。僧衣を着た中年男の姿はもうどこにもなかった。
 私はどこか釈然としない気持ちを抱えたまま、校舎に入る。あそこから見下ろした風景はいったいどうなっているのか、俄かに気になりだした。珍しく授業に気の入らないで、私はずっとそのことを考えていた。
 明日、私の誕生日がやってくる。
 十六歳の誕生日だ。八十まで生きると楽観的に考えても五分の一が過ぎてしまった、そんな日だ。だからこそ明日、あの体育館の屋根の上に上ってやる。
 その野望を、二次方程式の公式の横に鉛筆で書くと、その考えは一旦なりを潜めた。私はいつもどおり授業に集中し始めた。

 まだ両親が帰ってこないために音のない静謐な我が家は、その音をやたら大きく私に聞かしつけた。子守の意図のない子守唄となる鈍いゴムの摩擦音だ。私は大きな欠伸とため息をして反抗した。
 書けない。
 私は小説を書こうとしている。原稿用紙に書いてみる。たった二文字だ。小説。なるほど、簡単なとんちである。だが、「小説のようなもの」を書こうとすると窮してしまう。私の中に書きたい物語はない。創作意欲の器、水差しだけがあって、それに注がれるべき水がない。そこにどうにかして水を注げれば、私はその水差しを持って文筆の世界に旅立てる。旅の報告が作品として残る。その作品が、何かの未来を変えるかもしれない。
 だが水差しを満たす方法についての何かが、私には見当もつかない。相談をしようにも、父はいない。母もいない。友は最初から作らなかった。となれば私は私の力で水脈を見つけるしかなくなる。私には水の匂いを嗅ぎわける優れた嗅覚も水脈の音を聞く優れた聴覚もない。もし見つけたところで、その水が飲めるか、腐っていないか、それを判断する目も手も口も秀でていない。名水だと思って水差しに入れて旅立って、それがただの腐水であることに気付いたりしたら救われない。歩けなくはないだろうが、そんな水を携えてする旅の成果が快いものになるとは私には考えられない。
 流行にあわせて練習しているペン回しをしてみる。失敗する。また試みる。失敗。三度目の正直、或いは二度あることは三度ある。もう一度試みる。
 両親が帰るまで時間はある。彼らが帰ってきたらもう書いてはいけない。私は焦っていく自分を見つめる。客観的になる。自分を外から見つめてみると、昔父に言われた言葉を思い出す。
「作文っていうのは起こったことじゃなくて今自分が考えていることを書くんだ」
 今となっては見る影もないが、かつての父は教育熱心だった。母もそうだ。それがこうして時を超えて助言をくれることもある。だから私はまだ両親の料理に、手に入れた毒薬を混ぜられずにいる。
 今考えていることは何だろう、と自分をさらに観察する。頭の天辺から、爪の先まで、自分の事をきっちりと把握するように目を閉じる。そうしてみれば簡単に見つかる。私は小説が書けない、と考えている。つまり私は小説が書けないという話を書けばよい。父はそう言った。
 そうと決まれば主人公は小説が書けないが小説を書きたい小説家ということになる。プロフェッショナルかアマチュアかの違いは度外視して。彼もまた、私と同じように小説が書けないことに悩んでいる。そして、何らかのきっかけで書けるようになる。或いはならない。凡庸な話だが、私は快い旅の成果さえ得られればいい。その価値が百五十円で買える林檎でも良いし、四千八百円のテレビゲーム・ソフトでもかまわない。たとえ何十万もするダイアモンドでも不快ならば必要ない。快ければ、王道であれ外道であれ私は満足だ。
 いくらかの事項を紙にまとめる。つまり年代とか、背景とか、場所とか、人格とかいったところだ。私の中にある私の物でない何かを抽出してまとめていく。それを骨組みに、物語を書いていく。物語自体の骨組みはしない。肉を固めているうちに、骨が自然に生まれるのが小説の優れたところだ。細胞分裂の分化の過程のどこかでおおよその場合そういう形になる。