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性壁

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 マウンドから、ベンチへと歩いていく歩夢を見つめる。少しフラフラとした足取りで、少し不安になった。こういうときの嫌な予感というのは、得てして的中するものだ。ベンチの手前で、歩夢の身体は再び崩れ落ちた。
 再び心が乱された。歩夢は決していつも通りではない。決して無事ではない。この炎天下の中、ここまで投げ続けてきていた身体だ。そこに頭へ大きな衝撃を受けて、何事もなかったなど、ありえないのだ。
 慌ててタイムをとった捕手がマウンドへ来た。気持ちを切り替えろと諭され、俺は頷く。しかし、それに気持ちがこもっていないことは自分でも分かった。
 次打者への初球は、スライダーを投げた。しかし甘く入ったそれは簡単に捉えられ、ライトへ大きく飛んだ。浜風がなかったら、フェンスに到達していたか、もしかしたらスタンドに入っていたかもしれないと思わせるそれは、フェンスの手前で右翼手のグラブにおさまった。俺たちのアルプススタンドから大きな拍手が起きる。それをぼんやりと聞きながら、俺はゆっくりとベンチに戻った。
「ナイスピッチ」ベンチへ戻った俺に、百合が声をかけた。「ゆっくり休んで」
「ごめん……」
 俺はそれだけ呟くように答えると、ベンチ内のイスに崩れるようにして座った。八回裏の最終打者であった俺が、この回に打席に立つことはない。ただ何も考えずにうつむきながら座っていた。
〈銀王高校、選手の交代をお知らせいたします……〉
 俺を現実に引き戻したのは、ウグイス嬢の聞きなれた声だった。ベンチ内にいる他のメンバーも、皆がグラウンドへ視線を向けた。誰が代わったのかが気になるのだろう。俺も顔を上げてグラウンドを見つめる。誰が代わったのかは、すぐに分かった。
〈春風君に代わりまして、ピッチャーにカンダ君が入ります。六番、ピッチャー、カンダ君〉
 甲子園全体がどよめく。それもそうだろう。ここまで好投――完全試合を続けていた歩夢がベンチへと引き下がったのだ。喋るなというのは無理だ。
 その後は、あっという間だった。先頭打者が初球を安打すると、次打者が一球で犠打を決め、そして九番への代打がバックスクリーンへ叩き込んだ。ここまで一人のランナーも出せなかった打線とは思えないほどの鮮やかな逆転劇は、たったの数分で演じられた。ダイヤモンドを一周したヒーローのもとに、ベンチから一斉に飛び出した一四人の選手、二人のランナーコーチ、そして先にホームへ戻ってきていた二塁ランナーが集まる。ずっと座っていた俺も、百合に肩を叩かれて立ちあがった。彼女の目に浮かぶ涙が何を意味しているのか、俺には分からなかった。
 ホームベースを挟んでの整列。銀王高校の選手はほとんどが泣いているか、呆然としている様子だった。ただ一人、他と違う様子を見せていたのは、俺の目の前にいた男で、その顔にはいつものように笑顔が浮かんでいた。
 何故笑うんだ。俺は心の中で歩夢に問うた。俺が死球を当てなければ、歩夢はそのまま九回も登板し、そして完全試合を達成していたかもしれない。なのに何故、この男は何事もなかったかのように笑っているんだ。ただ親友が優勝したのを喜んでいるだけのような彼の振る舞いに、俺は戸惑った。
「歩夢、俺……」
「何も言わなくていいよ」歩夢は俺の言葉を遮って続けた。「おめでとう!」
 歩夢の笑顔が、そして周りの景色が滲む。俺は左手の甲で目から溢れるものを拭いながら、ようやく理解した。俺が歩夢と同じように笑えない理由を、彼と一緒に十年も過ごしてきて、今ようやく理解した。本当は、かなりの昔に気付いていて、それでも認めるのが怖くて気付かないふりをしていただけなのかもしれない。だがこの本音は、もう認めるしかないだろう。俺は、歩夢が嫌いだったんだ。
 整列の後、優勝監督によるインタビューが行われ、続いて主将とエースである俺の二人がインタビューを受けた。だが、自分でも何を語っていたか覚えていない。おそらく当たり障りのないことを述べていたのだろうが、俺の精神状態はそれどころじゃなかった。
 そして続けて行われた閉会式で、グラウンドに歩夢の姿はなかった。おそらく長時間炎天下の中にいるのを避けるためだ。あの状況で九回の登板を回避したのだ。監督としても、将来有望な歩夢に万が一のことが起きるのを恐れているのだろう。彼はベンチの中から、前にある柵にもたれるようにして閉会式の様子を眺めていた。高野連の会長による大会の総括をBGMとしながら、俺はずっと歩夢の様子を見ていた。少し寂しそうな表情を見せながらも、笑顔がなくなることは決してなかった。
 優勝校である自分たちよりも、準優勝である銀王高校がメダルを受け取ったときの方が、球場に鳴り響いた拍手が大きかったように思えた。錯覚ではないだろう。自分がこのスタンドで観戦している高校野球ファンなら、確実に銀王高校に同情している。
 閉会式が終わると、俺はすぐにベンチ裏のロッカールームへと引き下がった。テレビ局のインタビュアーがインタビューを求めていたが拒否し、監督と主将に全てを任せた。とにかく、今は一人になりたかったのだ。
 何分経ったのだろうか。俺は隣に人が座る気配を感じて我に返った。
「歩夢、救急車で病院に向かったみたい」百合が俺の顔を覗き込むようにして言った。「念のために検査を受けるだけらしいけどね」
「そうか……」
 会話はそこで途切れた。二人ともただ黙って、そこに座り続けていた。
 しかし数分後、急にロッカールームの外が騒がしくなり始めた。どうやら記者たちが何事か言い合っているようだ。俺は少し気になり、ロッカールームから出た。すると、すぐに彼らがしている会話の内容が聞こえてきた。
「事故ってマジなのか」
「正面衝突だってさ」
「おいおい、無事なのかよ」
 彼らが発したワード一つ一つに、俺の心はかき乱された。不安が俺の身体中を襲う。そして数秒後、ひと際大きな声が通路に響いた。
「春風がヤバいらしいぞ!」
作品名:性壁 作家名:スチール