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花の名は知らない ~約束~

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「まさか! 今までここにいたんだぞ。この額の布も傷の手当ても、あいつがしてくれたものだ。俺と話をしていたんだぞ?」
「ですが、確かにクリストファー様のお名でございました。何でも供のレイクランドを助けようとなさって、敵の矢に。結局、レイクランドも助からなかったそうですが」


『(レイクランドは)先に逝っている。君の姿を見つけて、どうしても会っておきたかったので』


 アリステアの耳にはまだ、クリストファーの声が残っていた。
 確かに彼はいたのだ。アリステアを抱きしめた彼の腕の感触も、まだ肩にそのままだ。
 では今までここにいたクリストファーは何だと言うのだ?
「クリストファー…?」
 彼が去って行った方向を見る。いつの間にか霧は晴れていた。






 戦争は三十年以上も続いた。長い戦いだった。ただただ、ただただ戦い続けた。気がつくと、アリステアは老いていた。
 『紅』が勝利し、宙に浮いていた王冠は、その首謀者たる大貴族の上に落ち着いた。
 平和な時代が戻ってはきたが、その犠牲はどうだろう? 大事な人々を失うことよりも、権力の奪い合いは大切なことだったのだろうか? ある者は父を、ある者は息子を、兄を、弟を、その手にかけざるを得なかった。勝利したにもかかわらず、没していった家名もある。
 傷は双方に残った。しかし、何もかも終ったのだ。振り返っても虚しい思いしか蘇ってこない。
 アリステアは今、廃墟と化したチェスタートン家の庭に立っていた。
 クリストファーを失った後、チェスタートンは没落の一途を辿った。次々と男達は戦死し、残った婦女子は遠くの縁者を頼って、この地を離れて行ったのだ。
 花の盛りが美しかった庭。夏には水音が涼しげだった噴水も枯れ果て、当時を偲ぶ術はなかった。


『この愚かな戦争が終れば、きっと会える。よく木登りをして叱られた、あの木の下で待っているよ』


 あの時のクリストファーの言葉が、アリステアをその木の下に導いた。
 戦争は終った。クリストファーは既に亡く、あの遠い日の約束も、実際に交わされたものかどうかも定かではない。それでもアリステアはこうして立っている。
「クリス、やっと終ったぞ。私は生きて帰ってきた。約束通り、この木の下に帰って来たのだ」
 言葉に応えるのは、風に揺れる木の枝だけだ。
 幹を軽く叩く。幼い頃、二人はこの木に登ってよく叱られた。老いたアリステアにはもう登ることは出来ない。
 小さく息を吐いて立ち去ろうとしたその時、崩れた石壁の辺りから足音が聞こえた。アリステアは振り返る。そして息を飲んだ。
「ク…クリストファー?」
 崩れた石壁の陰から現れたのは、クリストファーであった。三十年前に別れた姿のままの。
 アリステアは半信半疑で近づいた。髪の色も瞳の色も、思慮深い表情も、何もかも懐かしい彼だった。
 あの時のようにアリステアの手は、彼の腕を掴んでいた。そして腕の持ち主もまた、あの時のようにアリステアの手をやんわりと外した。
「クリスは、死んだはずだ」
 アリステアは自身に言い聞かせる。「ええ」と声までもがそのものに、彼はその呟きに答えた。
「クリストファーは私の叔父です。よく似ていると言われますが、そんなに似ておりますか?」
 やはり。
「見間違うほどに、よく似ている」
 やはり違った…と、アリステアは自嘲の笑みを浮かべた。
「あなたはランズベリー伯爵アリステア殿ですか?」
「そうだが?」
「ここ数ヶ月、何度も夢の中に叔父のクリストファーが出てきました。チェスタートンの屋敷跡に行って、この木の下で待つ人間に会って欲しいと。あまりに頻繁なので、数日前から足を運んでいたのです。生まれる前に亡くなった、会ったこともない叔父の、それも夢の中での言葉なのに、なぜか来なくてはいけないと」
 彼は微笑んだ。
「そして今日、あなたに会えました」
 アリステアは、胸に熱いものが込み上げてくるのを感じていた。
「彼は約束を破らない男だった」
 それは涙となって現れる。
 アリステアの肩に『クリストファー』の腕が回され、抱きしめた。
「叔父からの伝言です。『会えて良かった』」
 静かな口調もあのまま――かけがえのない友が時を超えて、確かに目の前に存在する。
「会えて…良かった」
 アリステアも『彼』を抱き返した。
 あれは夢ではなかった。
 遠い日の約束は果たされ、アリステアの中の花の名の戦争は、ようやく終わったのであった。